本日・年月日 | 平成16年9月30日 | 延日数 | 11日目 |
出発地 | 道の駅「しらぬか恋問」 | 出発時間 | 5時45分 |
到着地 | 登別温泉・万世閣 | 到着時間 | 17時0 |
天 候 | 雨のち曇り | 体 調 | 良 |
走行道路名 | R38 R336 道道34 R235 R36 | ||
主移動地名 |
白糠 ⇒広尾 ⇒襟裳岬 ⇒三石 ⇒静内 ⇒新冠 ⇒駒大苫小牧高 ⇒登別温泉 |
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現在(宿泊)地 | 登別温泉・万世閣ホテル | ||
道の駅 | しらぬか恋問 みついし サラブレット・ロード新冠 | ||
温 泉 | 登別温泉 | ||
名所・旧跡 | 襟裳岬 日高地方 駒大苫小牧高 登別温泉・地獄谷 |
走行関係(km) | 燃料関係(L) | 金銭関係(現金円) | 金銭関係(カード円) | ||||
本日表示 | 3720 | 今回入油 | 39.0 | 本日支出 | 3190 | 本日支出 | 12974 |
昨日表示 | 3302 | 前回累計 | 268.1 | 前日累計 | 48858 | 前日累計 | 47581 |
走行距離 | 418 | 今回累計 | 307.1 | 本日累計 | 52048 | 本日累計 | 60528 |
総距離 | 3720 | . | . | . | . | . | . |
11日目:PARTT(白糠、音別・尺別、十勝地方) PARTU(十勝地方、大樹町)へ 第12日目へ | |||
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白糠(しらぬか)を「しらぬか」・・、 道内へ来て数日以来、初めて雨にみまわれた、ここは白糠町の「道の駅・しらぬか恋間」である。夜来より強めの雨が車をたたく、その為、時々意識が戻される。 ボンヤリ頭のまま、5時には目が覚めてしまった。 車内で点てた熱めのコーヒーを流し込みながら、昨夜調達したサンドイッチを頬ばる。 正面に、雨に打たれる恋問海岸が霞んでいた、”恋問”(こいとい)とは何ともロマンチックな名前である。 駅内に、物産センター「恋問館(こいといかん)」があった。 早朝で今は未だ閉館中であるが、なんでも、土地柄に合わせたのだろう、恋愛成就や恋結び(縁結び)にちなんだ商品なども置いてあるとか。 面白いのは“形状記憶昆布”というのがあって、初めは乾燥した普通の昆布だが、湯水にさらすと”祝”や”寿”の文字になって表れるという・・、祝儀の返礼にいいかもしれない。 恋問海岸を一望できる広場はあまりのロケーションの美しさから、若いカップルの観光スポットと合わせてデートスポットにもなっていて、界隈ではベスト3にランキングされる人気があるという。 波の音と漁火を見つめながら、想いを語り合うお二人さん、はたして貴女の「恋の問」は解決しそうですか・・・? トイレへ立って見て驚いた、ユッタリと広く清潔なのである。
釧路炭田の歴史は幕末の1857年、白糠(しらぬか)石炭岬と釧路市岩見ヶ浜のオソツナイで採炭がされはじめ、これが釧路地方の炭田開発の第一歩であったといわれる。 大正年間に、明治鉱業や安田炭礦を経て、三井系財閥の太平洋炭礦が創業を開始している。
音別町は、白糠郡にある町で、町名の由来はアイヌ語の「オムペツ」(川口がふさがる)からきている。 紀行(69)音別、尺別 「地名とアイヌ語」道内に多い、「別」という字はアイヌ語で「川」を現していた・・、 人口約3000人、豊かな森林をもつ海沿いの町である音別は尺別、直別という地名も続き、JR根室本線の駅名にもなっている。 ところで、北海道内の地名で尾尻に「別」の字が付く呼名が多いのに驚く。 小生の知っている市町地域でも江別、芦別、当別、登別、士別、陸別、紋別、湧別、頓別などなどと、他にも無数に存在する。 「別」というのはアイヌ語で「川」を現している。 「別・ベツ」の他に「内・ナイ」も川を指すものと言われ、「ベツ」は比較的大きな川(大河)を指し、「ナイ」は小さな川(小川、沢)を指していると言われている。 序にアイヌ語の基本単語を幾つか挙げてみよう・・、 「ベツ」の対語で「ヌプリ」:山、「アイヌ」:人・人間、「カムイ」:神様、「コタン」:集落・部落、「トマム」:湿地、ピラ(崖)、「ト」:沼、湖、「トマリ」:港・湾、「ピンネ」:男・雄、「マッネ」:女・雌、「モシリ」:国・国土、「ワッカ」:水、「ポロ」:大きい、「ポン」:小さい、アシリ(新しい)、クンネ(黒い)・・などなど。 あの愛らしいラッコもトナカイもアイヌ語らしい。 北海道を旅するとなかなか読めない地名や何んと読むのか判らない地名が多々有る・・、 北海道の市町村名のうち凡そ8割がアイヌ語に由来すると言われる。 アイヌの人たちは、生活する上で欠かせない産物を得る場所、狩猟や交易のために移動する通路、そのときの目印となる地形など、自らの生活に深く関わる土地に地名をつけた。 特に川や沢には、河口から水源までびっしりと地名がつけられている。 これは、アイヌの人たちの多くが川筋に住んで、主に自然の中から食料や薬、衣服や道具などの資材を手に入れてきたからだとされる。 こうした地名が、現在、「○○別」、「××内」、「△△平」のような形で各地に残っており、アイヌ語を起源とする地名は当時の地形の特徴や産物、アイヌの人たちの暮らしなどを伝える貴重な文化遺産である。 現在、表記されている文字の内、アイヌ語の発音を聞き、当て字をしたのが「音訳」、アイヌ語の意味から付けたのが「訓訳」、それに音訳と訓訳の混ざり合ったのを「半訓訳」といって三種類の地名に分類されると言われている。 因みに、東北の仙台から秋田・山形県境付近にかけての線から北方にも、近世まではアイヌの文化圏、生活圏であり、北東北の蝦夷はアイヌ語を常用しアイヌ語の地名や足跡が多く残されているという。 例えば、秋田・能代に河口をもつ「阿仁川」筋ではどの沢をとっても内・ナイ地名で埋まっているという。 米内沢(イオナイ)、笑内(ウタシナイ)、浦志内(ウラシナイ)などなど多々・・。 尺別、直別など各地各駅周辺共小さな集落が点々として見られるが、うらぶれた寂れた感じは否めない。 中には、やはりと言おうか空家、廃屋も目立っている。 白糠炭田が隆興の頃は、この辺りも賑やかな街であったろうけど、時代の流れには、人々も同様に流され逆らえないものなのだろう・・!!。 この音別町の最後の駅が直別駅である。 やはりというか駅付近には数軒の人家があるだけの無人駅であった。 次回は「十勝地方」 紀行(70)十勝地方 「十勝川」
山岳地を離れて、浦幌町の市街地へ来た、比較的大きな街並みである。 河川延長156km、支川204河川、水系延長、流域面積とも我が国屈指の大河で、その源を北海道の屋根・大雪山連峰十勝岳に発しサホロ川、芽室川、美生川、然別川等を合わせて十勝地方の中心都市・帯広に達する。 このあたりより水量も増大し音更川、札内川、士幌川、途別川、猿別川さらに利別川等と合流しながら原野を悠々と直進して中川郡豊頃町大津において太平洋に注いでいる。 流域面積は全国6位(北海道2位)である。 十勝地方、所謂、十勝川流域の本格的な開拓は明治16年、静岡県伊豆・松崎出身の「依田勉三」が同志等とともに北海道開墾・晩成社を組織したことに始まるという。 (詳細後述、伊豆松崎にて) その後、多くの開墾者が入地し、物資を輸送するために十勝川河口の大津を起点として茂岩、利別、幕別、猿別、帯広、芽室へと十勝川を行き来する川船も多くなり、これらの市街地は「川港市街」として栄えた。 帯広をはじめ、十勝地方の繁栄は十勝川無くしては考えられず、即ち「母なる川」なのである。 ところで、地図を丹念に見ると十勝太付近の河川名は「浦幌十勝川」とある・・、 開拓、改良、開墾される以前の原始の時代においては、こちらが十勝川の本流であったらしい。十勝川という名称は、こちら十勝太の集落の地名を取って命名したという。 国道336号線は、日高地方の浦河町からかの襟裳岬を経てこの地に至っている。 (実際は38号線と重複して釧路まで到っているらしい)、 というか実際は十勝川河口流域を直進し、「十勝太」(とかちぶと)という集落で自然・・?消滅している。 実は国道は消滅しているが、一般道のダートコースが昆布刈石まで、更に厚内から直別で国道38に繋がっている。 その消えてなくなる国道から浦幌町十勝太の集落周辺は、牛などを放牧している酪農丘陵地が広がる。 そしてこの丘陵地一帯は縄文時代早期(約1万年年前)から擦文時代(約1000年前)までの住居跡や墓、アイヌのチャシ(城柵)跡などが広範囲にわたり残っているという。 これは国道建設に伴う発掘で発見されたもので、擦文時代の住居跡の周辺には無数の食生活の痕跡である骨の破片などが多数埋まり、それも現在のに比べると大型のものが殆どでありクジラなどはゆうに10メートルを超えるという。 つまり海や大河の流域近くは、様々な魚などが豊富に取れたことを物語っている。 何千年もの間十勝太一帯が太古の住みやすい「住宅街」だったのは、そこに食料がフンダンにありしかも食料は海から川からと、向こうからやって来るのである。 十勝太河岸段丘の高所には、それらの遺跡群を眺めるために展望台も設(しつら)えて在り、凡そ10万6000uにも及ぶ遺跡群は「北海道遺産」にも指定され、出土品は浦幌町立博物館に所蔵されている。国道が途中から立ち消えになって吉野方面に迂回したのは、これらの遺跡群に理由があったのかも知れない。 序(ついで)ながら同地区において、もう一つの交通路が予定されていた・・?、 目の前に太平洋が広がる浦幌町十勝太地区は、現在50世帯、120人が住むという小さな集落である。 この地区に明治時代、開拓が本格化するころに「大都市」を建設する計画があったという。 そして十勝太には国鉄の鉄路、河口では海運船の運航、高台には灯台、そして公園の設置、更には遊郭までもが予定されていたという。 明治中期、「十勝川河口都市」構想を策定し、国が公布した「北海道鉄道敷設法」(29年)に基づき、旭川から帯広を通って十勝太まで、更に釧路から延びてきた鉄路が十勝太を基点にしてつながるという計画だった。 しかし、実際の鉄路は釧路方面から内陸部の現在の浦幌町市街地を通って豊頃へ向かうことになり、十勝太への計画は立消えになった。 その原因の一つ、地元の人たちの噂によると内陸部の浦幌駅一帯は、或る有力国会議員が経営する農場敷地であり、計画変更はその農場内に駅を造るという当代議士による圧力的要求が有ったためとも言われる。 十勝太の都市造りの構想は今考察しても順当なもので、当地は大洋と大河に面し後背の肥沃な十勝の大平野を要している。 もし鉄路、道路も計画通り順調に敷設されていれば、釧路を凌ぐ大都市も夢ではなかったのかもといわれる。 都市化を夢みて周辺から早々と移り住んだ人々もいたようであるが、あっという間に幻と化してしまったのである。 合わせて、縄文時代の賑わいの再来も露と消えた。 一個の権力者による私利私欲が、地域発展を台無しにしてしまった端的な一例でもあろう。 因みに、太(ブト)とはアイヌ語のプトから来ていて、口のことであり、アイヌの人も河口のことを口と捉えていたようである。 次回も「十勝地方」について、 PARTUへ |
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