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日本周遊紀行

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紀行(86)亀田半島 「恵山」



「亀田半島」の全域は函館市になった・・、


余り一般的ではない呼び方だが、渡島半島の南東端、函館市から鹿部町を境界に海に突出した部分を「亀田半島」ともいう。 
南は津軽海峡、北は内浦湾、東は太平洋に面する。 その太平洋岸は山肌が海岸線に落ち込む険しい海岸でもある。

南茅部町の長い海岸、その東端のトンネルを抜けると「椴法華村」(とどほっけ)である。
「椴」の字が読めなくて往生したが、椴法華も珍妙な名前である。 
やはりアイヌの言に曰くがあり、「トトポケ」の意から成っていて、「岬の裏側」とかいう意味があるという、 
確かにこの先の向こう側には「恵山岬」が在る。 
その亀田半島最東端にあたる「恵山岬」は太平洋に突きだしているため眺めが良く観光地にもなっている。 
岬の近くには活火山である恵山(618m)がそびえ、海岸近くには温泉(恵山温泉郷)も湧出する。 


その恵山岬へと向っている・・、


国道278は港・部落の入り口辺りで内陸へ向かっているが、我が車は直進する。 
椴法華の港、浜町の細い部落道を慎重に進む。 
この辺りの海域は津軽海峡を抜けた暖流と千島海流が交わる潮目に近く、海産資源が豊富である。 主な漁獲物はスルメイカ、ホッケ、スケトウダラ、コンブなど水産加工も盛んだという。 
急坂を上りきった処に、サッパリと広がった高台が在った、緑の芝生が眩しい「恵山岬公園」である。今は人っ子一人いなく些か寂しい場所であるが、駐車場から岬灯台までは5分ほど歩かなければならない。


白の恵山灯台が海岸線に映える・・、


渡島半島、恵山岬灯台

道内でも古く1890年(明治23年)には点灯したという。 日本の灯台50選、100選に選ばれている。 
振り返ると「恵山」の姿が雄雄しく端正で良い。 だが裏側は爆裂火口の地獄谷からから噴煙を激しく噴き上げる活火山である。

この恵山は標高618mという普通の低い山だが、シラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、ミネズオウなどの本州では2,000m級の高山でしか見られない高山植物が群生しているといい、山頂からは北は羊蹄山、南は津軽海峡、下北半島の山々を望むことができる。 
又、山麓の 「恵山つつじ公園」は、5月下旬から6月上旬に60万本ともいわれるエゾヤマツツジ、サラサドウダンツツジが咲き誇る。

そして、やはり温泉も有る、恵山温泉郷は活火山の恵山の中腹から麓にかけて湧き出す温泉で泉質は硫化物、塩化物が主、酸性度が高くph2.1で濃い塩味がする。 
湯の花が多く発生し、黄褐色をしていて極めて濃厚な温泉のようである。
国民温泉保養地にも指定されていて、施設は町営の日帰り温泉をはじめ各宿泊施設でも立ち寄り湯があり、300円程度とお手頃のようだ 。


ところで、恵山岬から海岸沿いに恵山町から戸井町へ行こうと思ったが, 「水無浜」というところでで道路が途切れている、やむなく来た道を戻ることになった。 
お互いの道は地域界まで来ているのに肝心な所で途切れている、何とも不便で不合理な事だ。

町村同士(椴法華・恵山)何事か曰く因縁があって折り合いが付かないのか、それとも単なる自然条件のそのためか。 
いずれにしても、真近に控えている大都市・函館側からはアクセスできないのは如何なものか、主要観光地だけに何とかならないものか。
尤も、今は「函館市」になっていた、大都市函館である、その内、何とかしてくれるのであろうか・・?。

恵山岬から国道278号線へ通じる分岐までは狭い道が続く、この地点から函館まで47kmとあった。
函館から大間へのフエリー便は確認した結果16時20分、現在時刻は14時30分・・、何とか今日中に本州へ渡れそうではある。



相変わらず、R278は海岸間近を行く、恵山岬を境に内浦湾から津軽海峡になる。
戸井町へ入り、暫く行くと本州とは最短の岬といわれる「汐首岬」へ来た。 
岬のことはともかく、この岬付近から山手の方角を見ると、コンクリート造りの鉄道のアーチ橋らしいのが見えている。 
それはかなり古風なつくりではあるが、巨大なガッシリした造りで一種異様さも感じられる。 当然、ここも合理化の名の下に廃線の憂き目をみたのだなー・・、と思っていた。
ところがこれは廃線ではなくて未完成線である事が判った。

戦時下、戸井町に要塞を建設するといった軍事的な目的で、函館本線の五稜郭から戸井までを結ぶ戸井線として工事建設が開始された。 
概ね九割方の路盤が完成していたものの、戦時中ということもあり資材不足のため1943年(昭和18年)に工事を中断してしまう。 
終戦を迎え、結局建設は再開されないまま中止となり、その後放置されたままで現在に至っているという。

戸井は本州とは最短距離にあり、当時現行の青函航路の代替航路として青森県の大間との間に連絡船運行計画があったという。
戦争惨禍の遺構、「見果てぬ夢の跡」にしては、その壮大さゆえに悲惨さを禁じ得ない。

次回は函館・「高田屋嘉兵衛」

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紀行(87)函館 「高田屋嘉兵衛」




「高田屋通り」、函館山を背に高くそびえ立つ3.6メートルの銅像



「函館」開祖の父といわれる重要な人物・「高田屋嘉兵衛」・・、

「函館空港」の標識を見ながら町並みが軒を連ね、賑やかさと騒々しさが増してきた。
都会に来たという実感である。 
北海道に上陸した時に最初に世話になった、「湯の川温泉」を通過する。 時々市電と並行し、或るいは、すれ違いながら函館フエリー埠頭へ着いたのは、15時時半を回ってっていた。

函館は道内を出発する際にも些か述べたが、更に詳しく述べようとすると本稿は幾行、幾枚あっても足らない。 
今回は、極めてかいつまんで「高田屋嘉兵衛」(たかたや かへい)について記してみよう。


江戸末期の函館は、日米和親条約や日米修好通商条約により日本初の国際貿易港として開港していらい外国人居留地も設置され、異国情緒タップリのロマン溢れる街並になっている。 
この町並みの開祖といわれる重要な人物に「高田屋嘉兵衛」がいる。
 
嘉兵衛は、江戸時代後期、淡路島(現在の兵庫県津名郡五色町)の貧しい農民の子として生まれている。 
18歳で廻船業者を志し淡路と大坂とを往復する瓦船(瓦を運ぶ専用船)に乗る。 

寛政7年(1795年)1,700石積の「辰悦丸」を建造し、本格的に廻船業へ乗り出す。
幕府役人である近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などとも接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。 又、幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌(うりさばき)方となり、函館の北洋漁業の基を築いた功労者である。 
その卓越した商才と度胸で巨万の富を得た。


文化9年(1812年)ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンが、偶々蝦夷(北海道)沖の地理を調査中、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、警備隊に捕らえられるという事件がおこる。
今度はディアナ号の近くを偶然通りかかった嘉兵衛の船が捕らえ、嘉兵衛を配下五人と共にカムチャッカへ連行抑留される。 

囚われの身となった嘉兵衛は、ディアナ号の副艦長と話し合い、帰国後、松前奉行を説き伏せてロシア側に侵略の意図が無い事を納得させてゴローニンを解放し、併せて仲間の人質解放に尽力した。 
直後、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられている。

晩年は、故郷淡路島に戻り、港や道路の修築など郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、59歳で自宅で静かにその生涯を閉じている。
作家・司馬遼太郎が、高田屋嘉兵衛を書いた小説・『菜の花の沖』の中で、「今でも世界のどんな舞台にでも通用できる人物」と称している。


江戸幕末の1858年の頃「箱館」と呼ばれる小さな港だった時代、帆に風を受けて高田屋嘉兵衛はやってきた。 
松前藩の横暴を嫌った嘉兵衛は、松前の地を敬遠して当時まだ寒村にすぎなかった「箱館」に事業拠点を構えたのである。 

その後の函館の繁栄はここにはじまるのであるが。
嘉兵衛は、松前藩や藩士、そして藩に取り付く和人の商人どもを敬遠し嫌っている。
高田屋嘉兵衛の活動の場が蝦夷地に移り其処に足を踏み入れた時、「松前藩の暴政は修羅場の如くである」と嘉兵衛は感じていたのである。 

豊臣と徳川の両方に取り入った歴代藩主は江戸から遠いのをいいことに、アイヌを酷使し、搾り取り、追いつめて、やりたい放題をやっていた。
藩は、蝦夷地沿岸の各所に漁場を設け、本土からやってきた商人らを手足にし、アイヌたちにニシンやサケや昆布をとらせて「動物以下に扱って搾りとった」、「藩は、その商人たちに寄生し、かれらから運上金(税金)をとるだけで暮らしている」・・と嘉兵衛は嘆いた。

更に彼は、松前藩のアイヌ統治の手口を見たのである。
アイヌには和語の使用も学習も禁じ、穀物類の栽培も禁じたし、和人が種子を持ち込むことも厳禁した。 
蓑も笠も草鞋も用いさせなかったし、道路の一本作らせなかった。
藩の狙いは、アイヌを原始狩猟時代の生産様式の段階に閉じ籠めてき、その方が搾取には都合がよかったのである。
嘉兵衛は、そんな藩を敬遠しながらも幕府とは常に接触をもち、航海商圏を北方領土や樺太にまで広げていくのである。 

こんな時期にロシア人との人質事件が起きた・・、 

彼は函館の町を興しながら、ロシア人達と人質を取った取られた、返せ返さないの難しい交渉事、国の争いを1人の外交官として人間性を発揮し解決していく。 
そして最後には松前藩、幕府を説得する。
高田屋嘉兵衛は北海道、千島の漁場を開拓して得た利益を函館の開発に投入した。
函館の歴史を語るには欠かせない人物として今も市民の間では名高い。



因みに、昨今は北の方角(北海道)は冴えないと言われる。 

北方領土返還、北海道拓殖銀行の倒産、それに北朝鮮絡みもあり北海道経済といえば平成不況の代表のようなものといわれるが・・、今その函館は如何であろうか・・??。

函館の昭和期は100万ドルの夜景、特異な町並み、名物・函館朝市場等々・北海道観光の拠点で人、人、人の大混雑であり、中高年団体や修学旅行の生徒ごった返しの時代であった。 
その函館は、今現在も変わることはない・・!!。


それに対して今の「松前」である・・、

松前の本拠は無論、往時の松前藩で現在の松前郡松前町である。 
当時、函館とは地理的にはほぼ同じ条件下にあった筈であるが、今の松前は江戸期の豪勢な面影は全く無く、死に体になってしまっている。 

これはもしかしたら「アイヌの怨念」によるものか・・??。 

松前のJRローカル線は廃止され、菱形の北海道のしっぽの先とも言われて恐ろしく不便な土地柄になってしまった。 
尤も、本州とは最短の距離に有って、いざアイヌ軍勢に逆襲されても津軽海峡を一っ漕ぎで逃げ帰れるから、というのが立地の理由もあったらしいが・・?、 
その通り、幕末の松前藩は函館戦争においては土方軍勢に追い立てられ本州へ逃げ帰っているのである。


昭和33(1958)年、函館開港100周年の記念事業として函館山のゆるやかな斜面である「高田屋通り」のグリーンベルト宝来町の一角に4m程の彼の銅像が建てられた。 
函館出身の彫刻家・梁川剛一氏の製作のよるもので地元の絵葉書にもなっているとか。

銅像としては東京・皇居前広場の「楠公像」(楠木正成)、土佐・桂浜の坂本竜馬像と共に日本三大像の一つとされる。
尚、嘉兵衛の死後から6年後、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落している。

2004・12月、函館市は戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町と合併し、新たに広大な函館市が発足している。

次回は「津軽海峡」  PARTVへ

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