本日・年月日 | 平成16年10月1日 | 延日数 | 12日目 |
出発地 | 登別温泉 | 出発時間 | 7時15分 |
到着地 | 下風呂温泉 | 到着時間 | 18時45分 |
天 候 | 晴 | 体 調 | 良 |
走行道路名 | R36 道道2 R453 道道285 道道97 R37 R5 R278 道道231 | ||
主移動地名 |
登別温泉 ⇒地球岬 ⇒昭和新山・洞爺湖 ⇒豊浦 ⇒森 ⇒鹿部 ⇒恵山岬 ⇒函館⇒大間 ⇒下風呂温泉 |
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現在(宿泊)地 | 大畑海岸・(マイカー) | ||
道の駅 | 「とようら」 「YOU遊もり」 | ||
温 泉 | 登別温泉 下風呂温泉 | ||
名所・旧跡 | 室蘭地球岬 昭和新山 洞爺湖 恵山岬 函館 |
走行関係(km) | 燃料関係(L) | 金銭関係(現金円) | 金銭関係(カード円) | ||||
本日表示 | 4050 | 今回入油 | 41.7 | 本日支出 | 16000 | 本日支出 | 13637 |
昨日表示 | 3720 | 前回累計 | 307.1 | 前日累計 | 52048 | 前日累計 | 60528 |
走行距離 | 330 | 今回累計 | 348.8 | 本日累計 | 68048 | 本日累計 | 74165 |
総距離 | 4050 | . | . | . | . | . | . |
12日目:PARTT(長万部、八雲、森、鹿部、南茅部) PARTU(恵山、函館)へ 日本周遊ブログ | |||
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紀行(83)噴火湾 「長万部」長万部・・?、「オシャマンベ」と読む・・!、 長万部に至っている。 長万部は、「オシャマンベ」と読む。 幼少の頃、親父に新聞記事か何かを見て・・、 「この字なんて呼ぶの・?」、 「オシャマンベだよ、北海道の地名で、たぶんアイヌ語だろう・・」、 こんな会話を記憶している。 長万部は、蝦夷・北海道らしいアイヌ語で面白い呼名だなー・・と、かねがね思っていた・・が、当たらずとも遠からずであった。 「長万部」は昔,長万部川の河口付近にヒラメが豊富に生息していたため,アイヌ語で「オ・シャマンベ」(ヒラメのいる所)と呼んでいたもの。 これをもって元治元年,箱館奉行が「長万部」と名付けることを命じたらしい・・?。 長万部は「ひらめ」かー・・!!。 一方、長万部(おしゃまんべ)の由来は、北海道内の多くの地名同様にアイヌ語に由来するとされ、「オ・サマム・ペツ、川尻が横になっている」という説も有力なようである。 「川尻が横になっている」とは理解に苦しいが、一筋の河が海岸近くで大きく横に広がった光景と思えば納得である。 この地にヒラメなどが多く生息していたのだろう・・?。 長万部は昔から交通の要衝として栄えてきた。 渡島半島の付け根に在り、日本海側の漁場に通じる交通上の要(かなめ)であり、ここから往来するのが最短で便利であった。 江戸後期〜明治初期にかけては黒松内道も完成し、鰊漁場として人々を集めて日本海の寿都(すっつ)へ向け多くの人々が歩いてたという。 当時長万部を巡視に訪れた松浦武四郎(北海道の父・北海道の名付親)の記録にも・・、 『 山越内は大変な人で、人別改めで日によっては1万人にもおよび、長万部までの海浜は一条の蟻道のごとく黒くなって絶え間なく人が行きあった 』と書かれたほどだという。 現在は、道路が小生が通ってきた国道37号と内陸道の国道5号、鉄道が室蘭本線と内陸の函館本線が函館を起点として、この長万部で分岐している。 更に道央自動車道は平成9年に、この長万部を起点として開通している。 二股ラジウム温泉は、高炭酸カルシウム温泉として知られる・・、 長万部町中心街から北西方向の奥約20kmの地点、町民の 「ふるさとの山」、道内岳人にも人気のある長万部岳(972m)が聳える。 東斜面は急峻で山形もよく、高山の風格があるといわれるが・・、山のことではない・・、温泉のことである。 この長万部岳の東麓・二股川の上流に北海道でも有名な秘湯の一つでもあ「二股ラジウム温泉」がある。 温泉の泉質は特異で、炭酸カルシウムが大量に含まれ、それによって巨大な石灰華(石灰の湯の花)ができている。 この石灰華の上に明治時代に開かれという古びた湯治宿がある。 一軒宿の温泉で周囲は深い原生林に囲まれ、今でも重い病気の治療のために熱心に湯治する人がいるという。 湧出する温泉は純度の高い鉱泉水で炭酸カルシウムが大量に含まれ、その沈殿物である温泉湯華によって雄大な大積層が築かれ、巨大なドームが形成されている。 この種の温泉湯華は世界中でも珍しく、アメリカの国立イエローストン公園のマンモス温泉郡と二股温泉の二ヶ所のみと云われており、大正9年に東京大学の脇水教授によって初めて科学的に調査研究され、実証されたといいう。 「石灰華」は温泉水に含まれた炭酸石灰成分が湧出によって温度、圧力が下がり沈殿したものといわれ、ドームは非常に巨大で長さ400m、幅200m、厚さ25mもあるという。 濃度の濃い温泉の特質として、浴室はいたるところが赤褐色になっていて手すりの鉄パイプや桶まで湯華がつき、浴槽にも分厚く湯華がついているとという。 温泉の色も濃い褐色を呈し、タオルなどもすぐに茶色に染まってしまうとか。 源泉の温度は50度であるが、浴槽温は温めなので湯治向きには最適といえよう。 泉質は含ラジウム炭酸カルシウム泉、結晶の湯の華は各地へ持ち込んで、温泉として利用されているともいう。 長万部からの国道5号は、「噴火湾」を左に見ながら気持ち良い直線道路である。 しかし、交通の要所だてあって車の量はさすがに多く、よそ見油断はならぬ・・!。 それでも思わず、この海を唄った鳥羽一郎の「北斗船」を口ずさむ。 『北斗船』 鳥羽一郎 唄 みぞれまじりの しぶきを頭から 浴びて乗り出す 噴火湾 海は荒れても 行かねばならぬ 今年六十の お袋さんに ハワイ旅行が させたくて 内浦湾を別名「噴火湾」というのは、北に有珠山、南にこれから向かう大沼・駒ケ岳、亀田半島先端の恵山の火山群を要しているからとか。 明治時代に当地を訪れた英国人船長が、湾を取り囲む北海道駒ヶ岳や有珠山などの火山を見て「これはVolcano Bay=噴火湾だ」と語ったことに由来するといわれる。 紀行(84)噴火湾 「八雲、森町」「 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 」 八雲町へ入った。 農業が盛んな町のようで、丘陵地は畑と牧場に色分けされている。牧場は、主に牛のようで畜産、酪農か主体であろう。 以前、カミさんと訪れたとき、KFCの農場・フアームを見物したはずだが・・??、あの時は確か「KFCプランテーション・ハーベスター八雲」とかいう名称だったと思う。 名が示すとおりケンタッキーフライドチキン(KFC)の実験農場という形態を採ったレストランを中心にした施設だった。 国道5号線から内陸方面に入ると、とても雰囲気の良い並木道が続いていたはずなのだが、それがない・・?。 事実KFCは実験農場としての役割は終了したとして、別の経営母体に売却したといわれるが。 ところで繰り返し述べてきたが、北海道は元々はアイヌの住む地で蝦夷地といわれた。 江戸期に松前藩が置かれて、これがきっかけで各地に和人が住み着くようになった。 当時はアイヌとの交易や外国に対する北方警備が主な任務で、所謂北海道の開拓や開発とは縁遠いものだったらしい。 幕末になって内地国内では大きな時代のウネリ・変革がもたれされた・・、明治維新である。 明治期、版籍奉還、廃藩置県、そして身分制度の変化等に伴なって武士社会は崩壊し特に下級武士はいきなり平民に格下げされた、そして生活面でも苦境に陥った。 明治中央政府は、これら身分制度によって生じた旧武士達の救済を兼ねて、未開地であった広大な蝦夷地の開拓、開発政策に乗り出したのである。 先ず、蝦夷地に開拓使(黒田清隆等の特使又は長官、判官)を置き、指令による派遣(※屯田兵)や自由意思による移民政策を始め、併せて、北方の防衛(主にロシア)をも兼ねたものだった。 八雲は徳川御三家・尾張藩が開祖で、その名も付した・・、 このような状況の中、この八雲町は徳川御三家の一つ「尾張藩」の旧臣達の入植により開祖、開発が行はれたのであった。 生活に困窮する元武士たちは、旧臣授産(旧臣達の失業者または貧困者に、仕事を与え、生計をたすけること)の道を開こうと藩の支持、協力を仰いで新天地を目指した。 この地に150万坪の下付を受け、藩土を移住させて拓いたのが「徳川農場」の始まりであり、この町の団体移民の最初であった。 さらに移住者が増え、1881年(明治14年)には47戸、260余名だったという。 農場では牧畜も手がけ、混合農業を行い、加えて味噌、醤油の醸造にも着手している。 ちなみに八雲町の名付親は旧尾張藩主「徳川慶勝卿」である。 古事記に記されている・・、 『 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 』 (神が天井より天下へ降臨する時に八重の雲が湧き上がり、地上は楽園になろう) を引用したもの。 この歌は出雲開祖の神:スサノオノミコトが出雲の地に宮(出雲大社)を作ったときに詠んだと伝えられている。 出雲地方(島根県)にも八雲村がある、この八雲町も同様の意味を込めて命名したという。 北海道を旅行すると土産店に「熊の木彫り」の彫刻が売られている。 この熊の彫り物は、ここ八雲町が発祥といわれる。 同町内にある徳川牧場主・徳川義親が欧州旅行の際、スイスで熊をモデルにした木彫りの民芸品が売られているのを見付け、これを八雲農民の副業に奨励してその生活向上に役立たせようと考え、見本となる木彫り熊を買い求めて帰国したといわれる。 そして、直後に八雲を訪れた義親はこれらの見本を農民に示し、出来上がった製品はすべて買い上げることとして制作を試みるよう奨励したのであった。 2005年10月、道内でも有数の酪農地帯である八雲町と、日本海に面した往時はニシンの千石場所として栄えた熊石町が合併し、新しい八雲町が誕生している。 太平洋と日本海の両太洋をを抱く珍しい地域になった。 森町に入った・・、 山中に「濁川温泉」があり、そこに温泉利用した地熱発電所があるという。 この発電所は10万世帯分の発電能力を持つといい、地下2,000メートルの熱水や蒸気を利用ししている。 しかしながら、地熱発電は火力に比べ採算が合わないといわれる。 道内の地熱・熱水地帯は国立公園内がほとんどで、新規の開発にも制限があるといわれ、ここが北海道では最初で最後であるとか。 思うに、日本は火の国・火山の国である。無尽蔵にあるこのエネルギー資源、排出ガスを伴わない環境に優しい、このエネルギーを有効に利用できないものか・・??。 この地熱を利用した農家では、トマトや葉菜の等、地熱によるハウス栽培が多くあるという。 森町の「鷲の木」という海岸は、旧幕府軍の上陸地・・、 時は幕末・・、慶応4年(明治元年・1868年)、江戸城が開放されて戊辰戦争も幕府軍の敗戦が決定的となり、戦後処理として西軍は榎本武揚が所持する軍艦を接収しようとした。 これをきらった榎本幕府軍2000名が、「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8隻をしきいて江戸を脱出出港してしまう。 途中、仙台に立ち寄った後、10月20日に、この地「鷲の木」に上陸しているのである。 函館戦争の始まりであった。 10月26日に榎本幕府軍は函館・五稜郭を占拠し、松前城・江差を奪取して渡島半島の蝦夷地を手中にして、一時は共和国を建国した。 その後は開陽丸の不慮の沈没事故もあり、西軍は周辺で激戦を繰り返しながら函館周辺を制圧し、土方歳三ら多数の戦死者を出しながら、翌年5月17日榎本武揚は降伏する。五稜郭が明け渡され、函館戦争を最後に戊辰戦争は終結した。 ちなみに新撰組(2004年、NHK大河ドラマ放映)副隊長で、後に榎本軍の陸軍参謀であった土方は自ら死地へ出陣している。函館戦争で戦死した榎本軍幹部は、「土方歳三」たった一人であったという。 森町はモリマチと呼ぶ、道内で「町」は「ちょう」と呼ぶのが殆どであり、「マチ」と呼ぶのはここだけらしい。 静岡県に、あの「森の石松」の出身地である森町があるが、ここも「モリマチ」と呼ぶ。 国道5号線をこのまま進むと、大沼から函館へ出る・・が、 本来、一般の観光客は幹線(国道、鉄道)が走る森から函館へ向うのが普通である。 小生の今回の旅の目的は沿岸外周が目的なので、当然国道278方面へ向かう。 鷲の木辺りから海岸沿いの市街を行くと、左側真近に函館本線の「森」駅が在った。 「海岸なのに、森とはこれいかに・・?」 紀行(85)内浦湾岸 「鹿部、南茅部町」砂原町の沿岸からから観る「駒ケ岳」の勇姿が良い・・、 北海道の大沼・駒ヶ岳周辺は国定公園に指定された美しい景観で知られるが、渡島富士ともいい大沼側から見る湖沼を配した駒ケ岳が優美に映る。 だがここから観る駒ケ岳も天を指す弧峰で雄雄しく壮観である。 しかし、駒ヶ 岳は今も激しい噴火をしている活火山である。 1640年、寛永の大噴火では山体の上部が爆裂で南と東に相ついで溶岩流を伴なって崩れ落ちた。 南側山麓(七飯方面)では 低い土地、河川を埋めて大沼、小沼と、それらの中に点在する島々ができ今の姿になった。 また東側に(砂原、鹿部方面)崩れ落ちた山の一部は 内浦湾(噴火湾)に達し、大津波を起こした。 数ある噴火の中でも、この時が最大で大噴火と大津波で死者700名を出す大惨事となったという。 平成に入っても小規模な噴火を繰り返し、近くは平成12年にも数回激しい噴火があった。 今この地点からは風向きにより確認できないが、火口付近では現在でも弱い噴気活動を行なっているはずである。 従って登山、登行は禁止されている。(平成16年末) 火山と温泉・・、 火山や火山帯の近くには必ずと云っていいほど良い温泉地が在る。 国道278の海岸沿いにあるのが「鹿部温泉郷」である。 温泉の町・鹿部でも特にめずらしいのが周期的に地面から噴き出す「鹿部間歇泉」である。 鹿部町の間歇泉は大正13年に温泉を掘っているときに偶然見つかったもので、日本でも大変珍しいといわれる。 間歇泉は、他に別府や諏訪、鳴子にもあるが世界的にはアメリカのイエローストーン公園の大間歇泉が有名であろう。 鹿部間欠泉は5〜6分間隔で103度もの熱湯が15mもの高さまで噴出すという。 こちらの間歇泉は公園施設の中にあり入場有料(300円)であるが、ここには足湯もあり脚を浸しながらブワーッ!!と吹き上げるのをのんびり見物できるのがいい・・!。 鹿部町の温泉は泉源が30ヶ所以上もあり、ナトリウム・カルシウム-硫黄塩泉が主だが、それぞれ泉質が異なるの特徴をもつ。 適応症は、神経痛、関節痛、うちみ、痔症、リウマチ性疾患、創傷及び火傷、皮膚症などに効果があるという。 銭湯は「亀の湯」、「寅の湯」があり入浴料350円也。 間欠泉公園から少し行った所の国道沿いに「三味線滝」と言うのが在った。 高さ30m程の品の良い滝で、見ていてホッとする。 その名前の由来は流れ落ちる音が三味線の音色に似ているからと言われるが、果たしてどうであろう・・?。 縄文文化が栄えた地・・、 駒ケ岳を望むゆったりした低丘陵地から、海岸際に沿っている国道278(恵山内浦ライン)南茅部町に入る。 この辺りから風景は一変して、海岸近くまで山稜が迫り、背後の町界部は600m前後の山塊が波打っていて、海洋の町でもあるが山間の町でもある。 町は内浦湾に面する幅が5〜6kmの細長い町であり、山が迫る狭い海岸線に道路が通り家が並んでいる。 風光も道内では最も温暖な地域であろうし・・、漁業資源も豊富のようだ。 この幅の狭い地域に、山襞に沿って幾筋もの急峻な河川が流れ下る。 この川筋の段丘に大昔、人々が何千年もの間生活していた・・、長さ30キロメートル余りの海岸線には、ほぼ4キロメートルおきに縄文遺跡が連なって発見されているという・・。 一般に、縄文期とは早期から晩期までの凡そ1万年から2千年前あたりを云うが、この地区一帯には、それらの時代の殆どの期間に人々が在住し生活していたとみられる。 その考古学上の遺跡調査は1973年に始まり28年間に及んだといい、その規模は町内に88ヶ所、面積にして150万平方m、出土品総数は350万点にも達するとのこと。 南茅部地区は縄文人達による一大国家が形成されていた事になり、これは青森の「三内円山縄文人」の遺跡を凌ぐものとも云われる。 或いは青森などと盛んに交流等も行はれていたのでは・・??。 南茅部町は古代の香りのするロマンの町であった・・!!。 この南茅部町をはじめこれから訪れる椴法華村、恵山町、戸井町そして函館市による広範な地域の合併の話があるようで、しかも既に各市町村は合併協議の合意を得て平成16年12月には新しい「函館市」になることが決定しているという。 ところで道内の行くとこ、行くとこ、各地は合併協議がもちきりである。 合併についてはスムースに行われる所もあれば、中には地域の止むに止まれぬ事情、個々の議員さんの利害得失等で見送り解散になるケースも少なくないようである。 小生が「日本一周の旅」の最中でも着々刻々と合併の話が進行中であり、又、合併が済んで新しい市町村名に出くわし頭を悩ますこともあるが、この記録表示については出来るだけ従来の名称で記載しようと勤めている。 因みに、全国的にみて平成の大合併が始まる以前の1999年(平成11年)3月頃までは3200余の市町村であった。 合併が進んで以来、2004年11月現在では2400程度に減少したようだが、更に進行中で2005年(平成17年)にかけては合併のピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了した2006年(平成18年)4月には1800程度にまで減少したという。 つまり全国の市町村が、当初より4割以上も減少したことになる。 合併によって財政支援が受けられる「合併特措法」なるものの有効期限は2005・3月迄で、それ以降の恩典は無くなっている。 従って、この期日以降の合併の動きは鈍くなっているが、これ以降も都道府県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けては多少なりとも合併の動きが進むことが予想されるという。 全国の首長の皆さん、お国のために、わが地域のために奮闘努力してくださーい・・!! 次回は「椴法華・・?、恵山」 PARTUへ |
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