本日・年月日 | 平成16年9月23日(木) | 延日数 | 4日目 |
出発地 | (国)男鹿 | 出発時間 | 4時00 |
到着地 | 浅虫温泉「善知鳥荘」 | 到着時間 | 17時15分 |
天 候 | 快晴 | 体 調 | 良 |
走行道路名 | 県55 R101 こめ米ロード R339R280 R7 R4 | ||
主移動地名 |
男鹿⇒能代 ⇒十二湖 ⇒不老不死温泉 ⇒深浦 :⇒鯵ヶ沢⇒ 十三湖 ⇒小泊⇒竜泊ルート・眺瞰台 ⇒竜飛崎 ⇒三厩 ⇒蟹田 ⇒三内円山遺跡 ⇒浅虫温泉 |
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現在(宿泊)地 | 浅虫温泉・NTT保養所「善知鳥荘」 | ||
道の駅(R) | 「ふかうら」 「小泊」 | ||
温 泉 | 男鹿温泉 不老不死温泉 浅虫温泉 | ||
名所・旧跡 | 八郎潟 白神山地 十二湖 不老不死温泉 十三湖 竜泊ライン・眺瞰台 竜飛崎 三内丸山遺跡 八甲田遭難事件 |
走行関係(km) | 燃料関係(L) | 金銭関係(現金円) | 金銭関係(カード円) | ||||
本日表示 | 1291 | 今回入油 | 34.0 | 本日支出 | 532 | 本日支出 | 11559 |
昨日表示 | 880 | 前回累計 | 67.3 | 前日累計 | 3309 | 前日累計 | 14823 |
走行距離 | 411 | 今回累計 | 101.3 | 本日累計 | 3841 | 本日累計 | 26382 |
総距離 | 1291 | . | 3回目 | . | . | . | . |
4日目:PARTT(大潟、能代、岩崎) PARTU(鯵ヶ沢、津軽、市浦)へ 第5日目へ 日本周遊ブログ | |||
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紀行(23)大潟村 「八郎潟」日本最大の干拓地で、地域名を「大潟村」と称している・・、 大潟村は、田畑と集落地が分かれており、そこに、ユーモラスな日本一低い山である 「大潟富士」がある。 高さ3.776mで、無論「三千・・」でなく「三点・・」である。 ただし、頂上が海抜ゼロmという貴重な・・?山でもある。 因みに、国土地理院の話では、「現状の小さく造られた山では山とは認定できない。山とは歴史的認知度・・?も必要だ」とのことらしい。 村の全域が、かつて日本の湖で二番目の面積を誇った八郎潟で、昭和の干拓によって出来上がった人工の土地である。 合併・分割などで新設されたのではなく、純粋に新しく造られた自治体としては日本最初で、そして 最後であろう、大潟村の誕生は昭和39年10月で、歴史も40年程度しかない。 村は、山手線よりも二周りほど大きいらしい。 北緯40度と東経140度の交点でもあり、日本でも十度単位での交点がある地域はここだけであるらしい。 湖(八郎潟)の中に堤防を造り、堤防で囲まれた中の湖水の排水場から、ポンプで掻き出し(干拓)てできた村である。 土地は元々、湖の底だったところなので、その殆どが平らで村全体が海面より低く、もっとも低い所では約4〜5メ―トルも低くなっているという。 つまり海抜マイナス5mの村である。 そのための周囲は堤防で囲み、村の中に水が入らないようにする大切な役目をしている。 村の土地の約7割は、田や畑で、あとの3割は道路や水路や集落地となっていて、田畑は集落地の北側、東側、南側に広がっている。 ここで、「エピソード」を1つ・・、 八郎潟の干拓が始まって初まってからの最初の入植者は、おそらく「ネズミ」だったと云われる。 野ネズミやどぶネズミで、それも、猫も逃げ出すほどの大きさであったそうな。 このネズミらに農業を始めたばかりの大潟村では、それは頭を痛めていたという。 そこで思いついたのがイタチであったが・・!、 イタチはネズミの天敵で、昭和43年頃奄美大島から58匹のイタチが空輸された。 今度は、イタチの入植が始まったのである。お蔭で“ねずみ算式”に増えたネズミは、イタチのためにグッと少なくなったといわれる。 巷間人が、「次にイタチが増えすぎたらどうするの?、イタチの天敵捜さなくちゃー。 これがホントの『いたちごっこ』だね」と・・、 しかし、実際イタチが増えすぎることはなかったという。 今でも、奄美大島出身の子孫イタチが、運が良ければお目に掛かれる時もあるという・・。 次回も引き続き「八郎潟干拓」 紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」八郎潟干拓について・・、 元々の八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、水深はきわめて浅く、最深4・7m、平均水深3m程度であった。 その湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も深いところでは何と50mにも及んでいたという。 八郎潟の干拓計画は、世界の最新土木技術を導入して「ヘドロ」と呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画であった。 その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約三倍にも及ぶ面積であり凡人からみれば、とてつもない計画である。 ところで・・、 八郎潟の開発計画は古くから立案、計画されてきたという。 江戸安政年間(1854年〜1860年)払戸村(現在の男鹿市払戸)の渡部斧松による「八郎潟疎水案」に始まり、その後、大正期(13年)、昭和16年、23年と計画されたものの財政、その他の事情により、やはり実現することはなかった。 しかし八郎潟開発の構想はその後も消え去ることなく、昭和29年(1954年)にオランダのヤンセン教授等が来日、それを契機昭和32年ついに着工の運びとなった。 そして足かけ20年、総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、昭和52年3月をもって全ての工事が完了した。 ヤンセン教授によるオランダの技術は、堤防の下5mぐらいまでのヘドロを全部取り除き、幅130mの砂床に置き換えるという大掛かりな工法で、日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が100%可能になったという。 因みに、「オランダ」という国は、ご存知の通りの低地の国で、国土の4分の1が海抜0メートル以下という。 そして、風車の国である。 オランダでは最盛期に約九千基の風車があり、主として干拓の排水用として多く用いられたが、風車は、動力源としてその他にも粉挽き、水くみ、菜種油しぼり、製材など、幅広く活用されていたと。 更に風車のすぐれた技術は「造船」などにも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えることになる。 しかし、蒸気機関や電気などが発明されると、風車は建設されなくなり、現在は昔ながらの風車が千基ほど、文化財的に保存されているという。 オランダ第二の都市ロッテルダムの南東10キロの地に「キンデルダイク」というところがある。 平原と運河のこの村には、19基の風車群がずらりと並び、18世紀の美しい風景をそのままに残しているという。 キンデルダイクの長閑な風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として「世界遺産」にも登録されている。 さて、日本では・・、八郎潟では・・、 この壮大な未知への挑戦に、技術者たちは燃えた・・!!。 だが自然は、彼等をそのまま受け入れてはくれなかった。 悪いことに工事途中で青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれているのである。 知恵と汗と涙の結晶である堤防に、亀裂や地盤沈下が入ったのであり、その原因は最も恐れていた堤防下部の「砂の流動化現象」によるものであったという。 苦闘の歴史に終止符をうった後の、干拓に携わった人々の回顧録には「崩れ落ちた自信」、「不敵な挑戦」、「冷汗、油汗」、「血を吐き骨を削る苦労」、「責任の重大さに天を仰ぐ」・・、等などの主題が記されている。 それだけに湖底が、新生の大地に生まれ変わった当初、干拓工事に携わった全ての人々は万感迫るものがあったに違いないと。 オランダのヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を誉め上げている。 「 日本の土木技術の質の良さは、高額の費用を払って私を招く必要はなかった程である。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない 」といったという。 この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れないとも言われる。 紀行(24)能代 「能代駅と水運」能代駅の不可解・・?、 朝の喧騒にはまだ早い頃合、「能代駅」に寄ってみた、そして駅舎の様子を窺った。 秋田を代表する大都市・・?のわりには、JR能代駅の駅舎は1階建てのこじんまりしたもんであった。時刻表を見ると、能代駅というのは奥羽本線ではなく「五能線」であることに気がついたのである。 当然、秋田県北部にある比較的有名で大きな街というイメージの「能代」ことだから奥羽本線沿線の街かと思ったが、そうではなかった、隣駅の東能代駅が奥羽本線なのである。 奥羽本線は、福島駅から山形駅、秋田駅を経由して青森駅に至る路線で、東北本線に対比してそれより西側の主要都市を結ぶ幹線のはずである。 本線建設は、明治中期の1894年北の青森〜弘前間が先ず開通している。 次に南部の福島〜米沢間が開通して、その後、順次北と南から工事が進められ、1905年に全線開通している。 その能代であるが本来、奥羽本線は能代市街地を通すはずであった。 しかし、何故か地元民に反対されてしまい結局、地の利もあって本線は「東能代駅」のみに落ち着いたらしい。 奥羽本線の東能代は1902年に開通し、遅れて1908年、能代〜東能代間の1駅区間が貨物取り扱いとして能代線、言わば本線の「盲腸線」として開業したのである。 奥羽本線の青森、福島の間は日に10数本の特急列車が往来しているのに、「能代駅」は特急には無縁の駅なのである、ただ、能代・東能代間は特別に輸送頻度は多い。 「奥羽本線には能代駅がない」・・、 そう、能代市街地の能代駅とは、幹線鉄道・奥羽本線の駅ではなく、いわゆる地方線である五能線の駅なのである。 能代から先の北へ向かう五能線ダイヤは極端にすくなくなり、これはまさに「盲腸線」の状態であった。 「能代」は何故、本線駅建設を反対したのか・・? 能代は米代川流域つまり「野の代」が転じて呼ばれたものであると考えられ、即ち水運により発展したのが「能代」の町であり、川との結びつきが強いのである。 能代市街の北部を、ゆったりと「米代川」が流れる。 奥羽山地の八幡平付近を水源とするが、米代川の語源は「米のとぎ汁のように白い川」と言われている。 10世紀初頭の十和田湖火山が大噴火を起こし、その火山灰で白く濁った川の色を表現したとも言われているという。 米代川流域には鉱山地帯が多く尾去沢鉱山、小坂鉱山、大葛鉱山、阿仁鉱山、太良鉱山などが在って、鉱山から出る鉱石は米代川での舟運で運ばれたという。 鉱山は約1200年の歴史があり、かつ ては金・銀を産出し、近代では銅を産出していたという。 また、この地区は優れた材木の産地でもあり、これらも米代川を使って運ばれた。 特に、丸太を筏にして川に流す筏流しは1964年まで続いたという。 明治中期に、鉄道敷設の話が持ち上がったが、地元民というより米代川に携わる水運関係者が、利益流出のための生活権を考えての反対だったといわれる。 だが、水運はやがて鉄道や道路の整備がすすむとともにしだいに衰退し、いまは往時の面影はない。 その「五能線」は、東能代駅と南津軽郡田舎館村にある川部駅を結ぶJR東日本の鉄道路線である殆どが白神山地の西部、日本海沿岸を走るローカル線である。 歴史的には、南部地区は1908年に開業した能代の能代線より始まり、北部地区の青森県側においても、1918年、私鉄の陸奥鉄道が奥羽本線に連絡する川部〜五所川原間に開業したのをきっかけに、順次延長されていった。 昭和大恐慌の影響で、建設が一時スローダウンしたものの、1936年の陸奥岩崎〜深浦間を最後に全通し、「五能線」と改称されている。 全通開通した五能線であるが・・、 岩館駅〜北金ヶ沢駅間は海沿いを走るため、吹雪や強風、高波で運休することがシバシバ発生する。 このことから地元の人々は、「不能線」、「無能線」とか云って、有り難くないあだ名が付けられているという。 又、臨時列車を除けば岩館駅〜鰺ヶ沢駅間では5〜7時間も運行されない時間帯もあるとか。 ところで、ご当地ソングの女王と言われる「水森かおり」が、所謂、ご当地の『五能線』を唄っている。御蔭さまと言おうか・・、 五能線の秋田−青森を走っている快速電車「リゾートしらかみ」について、それ以来の年間乗客数が倍増したという。 JR東日本・秋田の関係者は「水森さんに唄ってもらって、五能線が全国区になった」と喜んでいるようである。 序ながら、「能代」といえば、・・、 元バスケ選手(中学時代)であった小生にとって能代工業高校のバスケットボールでの活躍が思い起こされる。 特に、日本人初のNBAプレーヤーである「田臥 勇太」(たぶせ ゆうた)である。 小生同県の神奈川県出身で、ポジションはポイントガード、身長1m73cm、体重75kg、靴のサイズ29cmと、小柄で小生と余り変わらない・。 小さな体で大きな選手をすり抜けるスピード、類い稀なパスセンス、視野の広さとジャンプシュートがプレイの特徴で、日本人で初めて世界ジュニア選抜に選ばれるなど、日本人では抜きん出た実力の持ち主である。 速さという点だけで言えばNBAでも通用するレベルであるのは確かであった。 小学校2年生からバスケットボールを始め、神奈川県大道中学校では全国3位の成績を修めた。 名門・能代工業高校で入学後即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の三大タイトルを制し、史上初の「九冠」を達成する。 公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみであるというから驚きである・・!。 能代工業高校男子バスケットボール部は、史上初の三年連続三冠(インターハイ、国体、選抜大会)を獲得し、三冠獲得は9回目、その他にも全国優勝、連続優勝など、全国大会で50回を越える優勝を成し遂げている強豪である。 「田臥」時代が全盛と言うのではなく、「歴史と伝統と指導」で稀に見る成績を残しているのである。 尤も、能代市そのものが、特に、1989年度(平成元年度)以来から、バスケの街づくり事業に取り組んでいるので、地域性も含めねばなるまい。 籠球王国・能代バンザイ・・!である。 紀行(25)岩崎村 「世界遺産 白神山地」
そして、白神山地の山襞(やまひだ)が海岸まで迫出している。 日本海より競り上がり、延々と続く山並みの「白神山地」は、平成5年(1993年)「屋久島」と共に、世界遺産(自然遺産)に登録された。 「世界自然遺産」登録地域は、中央部の核心地域と周辺の緩衝地域に分かれ、これらの地域は世界遺産登録時より以降は開発を行わず、現状のまま保護される事になっている。 「白神山地」は、広大な原生林である「ブナ林」が特徴・・、 「白神山地」の特徴は、殆どが「ブナ林」に覆われていることである。 白神山地には人間活動の影響をほとんど受けていない源流域が集中し、世界最大級といわれるブナ林が広域に渡って、ほぼ原生そのままの姿で残されている。 そのブナ林内には多種多様な植物群が共存し、それに依存する多くの動物群が育まれ、自然の生態系がありのままの姿で息づいている。 山地は、名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはなく、市街地のそばにある林のようなブナ林が巨大化したものと考えるのが妥当である。 世界遺産の登録は、観光地であるからではなく、このような広大な原生林が世界的に珍しいためなのである。 「世界遺産」とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然などである。 人類が共有すべき普遍的な価値をもつものを指し、文化遺産と自然遺産及び文化と自然の複合遺産の3つに大別される。 なお、白神山地は、文化遺産である法隆寺地域の仏教建造物、姫路城、屋久島とともに、日本で最初に世界遺産として登録されている。 ところで、「ブナ」(山毛欅)とは・・、 ブナ科ブナ属の木で落葉広葉樹、温帯性落葉広葉の樹林を構成するとあり、椎茸栽培以外にはあまり役に立たない木であったために伐採を免れたと言われる。 ブナは沢山の小さな実を付けるために、果樹と同様に寿命がさほどでもなく、平均寿命は200年ほどであると言われている。 自然に放置して倒れたブナは、他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給する。 「白神山地」のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られるが、400年以上のものも確認されている。 ブナの樹皮には地衣類やコケ植物が付着生育している。 それは樹皮が剥がれ落ちないというブナの性質による要因も大きいが、幹を雨水が流れ落ちることも関係が深い。 降雨時にブナ林を歩くと、幹に勢いよく雨水が集まって流れているのに驚かされる。 ブナの樹形は、水を集めるようにできている・・、 このような幹を伝う流れを「樹幹流」といい、この樹幹流は単に雨水が集まって流れているのではなく、栄養分が多く含まれているのである。 それはブナの樹幹が、水に養われる地衣類(菌類と藻類との共生体)やコケ植物の生活場所となっているためである。 ブナの樹幹を伝わって流れてきた水はブナの根元で地中に吸い込まれ、地表を流れる水は見えなくなってしまう・・、地面に吸い込まれていくのである。 ブナ林の土壌は豊かであり、黒い土の中にまるでスポンジに吸い込まれていくように雨水が吸い込まれていく、一般にこれらの土壌を「腐葉土」という。 ブナ林の発達する冷温帯は、夏の間は結構気温が高いので植物の生産性は高い。 しかし、暖温帯に比べて有機物の分解速度は遅く、差し引きとしての有機物の蓄積度は最も多い地域である。 この厚く積もった有機物を多量に含む土壌が大量の水分をため込むことができるのである。 無論、土壌動物もたくさん生息しており、土壌構成を良好なものにしている。 ブナ林は「緑のダム」とも呼ばれるが、それは地上部の植物部ではなく、ブナの作り出した豊かな土壌が雨水をため込むのである。 五能線に、「十二湖」という小屋風の無人駅が有る・・、 また海岸に沿うR101の道路標識は、十二湖方面を指しているので標識に従って向かってみた。 これより2〜3km内陸へ向かうと直ぐに十二湖が現れ、そこはすでに深山幽谷の世界であった。 「十二湖」は江戸時代・宝永元年(1704年)この地を襲った 大地震によって沢が堰き止められ、地盤が陥没して形成されたといわれている。 その時できた湖沼は33を数えたが、「崩山」の頂上から眺めると、小さい池は森の中に隠れ、大きな池だけが12個見えたことから、「十二湖」といわれるようになたという。 十二湖は、広大な森が本来の姿のまま保護され、植物の種類の豊富さは全国的にも稀な地域といわれる。 近隣にはブナ林が密集し、それらの水分の含有量が多いため、自然の造った水桶あるいはダム、しかも自然の浄化装置を持つ、水質の良い水が各所で湧き出している。 湖の総数は約30以上在り、それぞれ透明度は高いという。 因みに、「十三湖」というのが、この先津軽半島の市浦村にあるが、あちらは湖の数とは無縁のようである。 尚、これから訪れる予定でもある。 世界遺産関係 http://orimasa2005.web.fc2.com/ 世界遺産・白神山地 http://orimasa2005.web.fc2.com/ss-1.htm |
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