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本日の記録・データ

本日・年月日 平成16年9月26日 延日数 7日目
出発地 島牧村 R・よってけ!しままき 出発時間 6:30
到着地 小平町 R・おびら鰊番屋 到着時間 21:10
天 候 快晴 体 調
走行道路名 R229(追分ソーランライン) 道道998 R5 R327 R231 R232
主移動地名
島牧⇒岩内⇒神恵内 ⇒当丸峠  ⇒古平 ⇒積丹岬 ⇒小樽
 ⇒銭函 ⇒厚田 ⇒増毛 ⇒留萌(温泉) ⇒小平
現在(宿泊)地  道の駅「おびら鰊番屋
道の駅(R) 「よってけ!島牧」  岩内  「おびら鰊番屋」
温 泉  留萌神居岩温泉
名所・旧跡 R998当丸峠 積丹岬   小樽  小樽運河 、暑寒別川のサケ遡上
主要関係箇所
リンク集
  寿都  神恵内  厚田  増毛  小平  

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 2159 今回入油 25 本日支出 1931 本日支出 3000
昨日表示 1776 前回累計 151.5 前日累計 20712 前日累計 37570
走行距離 383 今回累計 176.1 本日累計 22643 本日累計 40570
総距離 2519   6回目

7日目:PARTT(寿都、岩内、古平、余市)  PARTU(北都・札幌)へ  第8日目へ  日本周遊ブログ 写真集
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紀行(43)寿都 「弁慶岬」



北海道最西端の地といわれる秘境・「尾花岬」・・、


北海道で本州側に細長く延びた半島を「渡島半島」(おしまはんとう)といい、一般には寿都から長万部を結ぶ黒松内低地以南の地域を指すのであろう。
その先端南部は二つに分かれ、日本海に面する方を松前半島、太平洋が亀田半島と称しているが、こちらは余り一般的な名称ではないらしい。

地図を観ても凡その見当は付くが、この半島は道内の各所に観られるような原野や平原、湿原といった平坦な地域は殆ど見当たらず、急峻な山地帯が一体を占めている様である。 
特に半島の日本海に面する北西部の海岸線(30〜40km)は、奇岩や岩礁が連なる山岳地帯となっている。 

大成町辺りの海岸のすぐ横には標高816mの「毛無山」が聳え、その山塊が日本海に断崖となって崩(なだれ)れ落ちている。 
この地が、北海道最西端の地といわれる「尾花岬」である。

北海道最南端の地「白神岬」でも述べたが、北海道の沿岸周を巡っている小生にとっては是非訪れて見たい地である。
だが、急峻な山岳地と海岸が一体となっている地域で、残念ながらまだ道路も開通していない様で、従って、訪れるのは無理なようである。 

この辺りは、「日本の秘境100選」にも選ばれている辺境の地なのである。
因みに、北海道で100選に選ばれている地域は、知床やサロベツ原野など11ヶ所におよぶらしい。



寿都の弁慶岬に立つ武蔵坊弁慶の銅像


その渡島半島の付け根に当る「寿都」(すっつ)へ達した。 
この地は、北に向って鋭角に尖った岬が在り「弁慶岬」という。 
その一角の大きな台座の上に、長刀を持つ堂々とした「武蔵坊弁慶」の像が、仁王立ちならぬ弁慶立ちで立っていた。


ところで、北海道には魅力的な岬が多いようで、外周旅行を実行している小生にとっては謂わば通り道のようであり、楽しみの一つでもある。
銅像は寿都町が岬を公園として整備し建てたものらしく、台座に刻まれた「想望」の文字は、北の大地を駆け抜け、悲劇的な最後を遂げた義経・弁慶一行の思いを伝えているという。  
ただ、岬の弁慶像を観光の目玉にしたつもりであろうが、今のところ人気の気配は余り無いというが・・?。 
広々とした駐車場いっぱいに、サブちゃんの「弁慶岬」という歌がスピーカーから流れていで、町を挙げて義経伝説に彩りを添えているのは理解できるが・・?。


その銅像の武蔵坊弁慶は、海を見ている・・、


毎日、岬の先に立ち、義経再挙の兵を乗せた船団が沖に現れるのを待ったのであろうか。
仁王立ちで同志を待つ弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、いつしか岬を弁慶岬と呼ぶようになったという。


チョット、横へ反れるが・・、

これより先、寿都湾に面した歌棄(うたすつ)地区に、佐藤家が明治初期に建てたという漁家建築の代表的な大屋敷「鰊御殿」が海に向って建っている。 

佐藤家は、義経の家臣・佐藤継信の末裔といわれ、現在でも人が住んでいてニシン場時代の資料館にもなっている。
幕末の1850年代初頭に歌棄、磯谷二場所の場所請負人(指定された区画、区域が「場所」であり、その交易権(生産行為も含めて)を委託された者を「場所請負人」とよんでいる)を勤め、維新後は駅逓(郵便)取扱人を命ぜらるなど、同地方随一の名家といわれる。 

積丹半島開発および漁法改良に尽力した人物であり、開発功労者として著名である。
この佐藤家は、義経の家臣・佐藤継信(さとうつねのぶ)の末裔といわれる。
継信は平安時代末期の武将で、源義経の家臣・義経四天王(佐藤継信・忠信兄弟、鎌田盛政・光政兄弟=義経の父・義朝の家臣の子)に数えられる。


2005年に放送されたNHK大河ドラマの「義経」でお馴染みであろうが、「佐藤兄弟」(忠信:海東健 、継信:宮内敦士)は元々奥州藤原家(藤原秀衡)の家臣であった。 

1180年、義経は、関東・鎌倉において実兄・源頼朝の挙兵を知り、奥州より加勢に向かおうとした際、秀衡の推挙によって義経の側近として兄弟共に平氏追討軍に加わるのである。 
1185年、「屋島の戦い」において、強弓で知られた平教経が義経を狙って放った矢を、継信が一身で受け戦死する。 継信の死を悼んだ義経は、懇(ねんごろに)ろに供養を行ったという。

因みに、弟の忠信は、平家が滅亡する「壇ノ浦の合戦」まで戦い抜く。 
戦後、義経が兄・頼朝と不和になり鎌倉に入れず吉野に逃れた際もそれに従い、義経を頼朝が差し向けた追っ手から逃すために相手に単身で切り込み、義経を逃れさせた後、自ら京の義経の館に戻って北条時政の軍と戦い、そこで自害している。


弁慶といい、佐藤兄弟といい、いずれも義経の経緯伝説から発しているが・・、


この辺鄙な田舎町に如何にして佐藤継信の子孫が移り住んだか・・?、
その史的経緯はともかく、このような伝説が残っていること事態に、あらためて歴史のロマンを感ずるのである。 
義経蝦夷渡来伝説」は各地に存在するが、義経と共に戦って敗れた落ち武者が、この地に土着したことには頷けるのである。


さて「弁慶岬」であるが・・、

津軽海峡を渡って北上した義経一行が、弁慶の舎弟・常陸坊海尊が率いる船団を待ち受けた場所とも言われている。
江戸時代の蝦夷地探検家・松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、『近くに小山があり、義経卿此処(ここ)より見給いし』と記されているという。 


寿都町で毎年夏に開催される「寿都湾弁慶祭り」では、かがり火をたいた義経・弁慶の一行が町を練り歩き、羽織はかま姿の町長と口上を交わす儀式が催されるという。 
役場近くには、長さ約90センチの弁慶ゲタが奉納されていて、合わせて弁慶堂が建っているという。

『弁慶岬』  唄・北島三朗

海は朝やけ 男の大地 
いのちはぐくむ 日本海 
夜明け間近の 寿都湾 
金波銀波の 輝く海原に 
道をつくって 船がゆく 
無事を見守れ 弁慶岬
 



紀行(44)岩内 「雷電海岸と岩内大火」


世界史上稀にみる海難事故(洞爺丸遭難)と岩内大火を背景にした、水上 勉の推理小説「飢餓海峡」が発表され、映画化もされた・・、


国道229号線を岩内方面に向かうと、又々、山が迫って険しくなり、トンネルも多い。
ここは「雷電海岸」といい、積丹半島の西側の付け根に当る岩内町と蘭越町の町境でもある。
スキーのメッカ、「ニセコ」の山塊が連なってきて、その西の端が代表的な山・「雷電山」(1212)であり、この山の腹が強烈な断崖絶壁となって日本海にナダレ落ちているのである。
謂わば荒々しい岩石海岸である。

近年になって急峻な山肌に辛うじて道が付けられているが、新道を含め道路も整備されて新しいトンネルも次々完成しつつあり意外と走り易い。 
長い「刀掛トンネル」(2754m)を抜けると「雷電温泉」の看板が立ち、数軒の旅館、ホテルが海岸の岩場にへばり付く様に点在する。 
更に、ここより雷電山のそば、雷電峠の山道をおよそ3kmほど入った山中に、現代文明から隔絶された一軒宿の「朝日温泉」がある。

江戸末期の創業と言われる古宿で、かつて海岸国道が出来る以前は、この峠を越えて岩内に到ったもので、山越えする人々のための峠の茶屋や駅逓が置かれていて随分とにぎわったという。 
国道の開通に伴い、当時の趣のまま秘湯として山中に残されたという。 
この地は今でも携帯電話、普通の電話も使えず、電気も通じず自家発電機に頼らざるを得ないという、野趣あふれる山の湯である。


水上勉の推理小説・「飢餓海峡」は、洞爺丸遭難事故と岩内の大火をネタにしたものであるが、この朝日温泉も登場する。 
昭和30年代頃までは山間を上下する大変な道だったようで、あの岩内の大火の後の様子を小説は『 朝日温泉は雷電山のふもとにあった。  宿は石ころ道と川をはさんで、とびとびに建っていた・・』と、 作中、岩内で襲われた登場人物たちが、この朝日温泉で出会うのであるが。


やがて「岩内」に着いた・・、


バスセンターや道の駅、鉄道記念公園(・・?)等、岩内の中核地で、昼間ならかなり賑わう所だろうが、今はまだ閑散としている。
岩内には、かって国鉄岩内線の鉄道があって、1985年国鉄合理化の煽りで廃線になっている。

ところで、この「岩内」には大きな現代史の1ページがあった。 
1954年9月26日洞爺丸台風のさなか、岩内の街に大火が発生し、何と町の八割が消失したのである。

その日の夜8時20分頃、台風15号(洞爺丸台風)の接近で避難し、留守宅となっていたアパートから出火
、岩内の町中を嘗め尽くし町全体の80%を消失した。 
この時の焼死者33名、負傷551名、消失家屋3300棟などであった。 
丘の上には今も「大火の碑」がある。


この同じ日、青函連絡船「洞爺丸」が函館湾内において、転覆遭難事故を起こし、1000人以上の犠牲者をだしている。 
世界史上稀にみる海難事故であるが、このことは函館(U)の項で記載している。

その凡そ10年後、この岩内大火(洞爺丸遭難も同様)を背景にした水上 勉の推理小説「飢餓海峡」が発表され、映画化もされた。
映画制作では現地ロケが行はれ、地元の人は多いに協力したとか。


その主な筋書きは・・、

『 ・・昭和22年9月20日10号台風の最中、北海道岩内で質店一家3人が惨殺され、犯人は放火して姿を消した。その直後嵐となった海で、青函連絡船の惨事が起き、船客530名の命が奪われた。死体収容にあたった函館警察の刑事弓坂は、引取り手のない2つの死体に疑惑を感じた。船客名簿にもないこの二死体は、どこか別の場所から流れて来たものと思えた。そして岩内警察からの事件の報告は、弓坂に確信をもたせた。事件の3日前朝日温泉に出かけた質屋の主人は、この日網走を出所した強盗犯沼田八郎と木島忠吉それに札幌の犬飼多吉と名のる大男と同宿していたのだ・・・』

人間の内に潜む心の闇を、スリラー仕立てで見事に描ききった堂々3時間におよぶ傑作超大作である。

監督・内田吐夢、出演は犯人役:三國連太郎、ベテラン刑事:伴淳三郎、遊女:左幸子らが熱演している。 
この映画の冒頭に、かっての国鉄・岩内駅が映されているが、他に青函連絡船の遭難シーンや下北半島の主要観光地である仏が浦、湯野川温泉、恐山、下風呂温泉なども登場してくる・・。


因みに、小生がこの地「岩内」を訪れた今日は、2004年9月26日である。
この日は、奇しくも50年目のこの日に当るのである。
小生にとっても実に奇遇な日にも成ったが、本日、当の岩内町では何か追悼などの行事が行はれるのであろうか・・??。


泊村の原発・・、

泊村、神恵内村はもう積丹半島の一部である。
これから神威岬から積丹岬へ抜けようと思っていたが、カーラジオの交通情報でこの辺りの「通行止」の情報をさかんに報じていた。 
 その前に、「泊村」のことを一筆加えねばならない。実は泊は「原発の村」ということで頭の片隅にあったのだが、この日は全く気が付かず通りすぎてしまったのだ。

泊村は地図を見つめても、ほんの一握りの小さな村域である。 
昭和39年、炭坑が閉山されるに伴い人口が半減、鰊漁業の衰退、加えて沿岸漁業の不振により、漁業離れと後継者となる若年層の流出も著しいようで、また人口の占める65歳以上の高齢者の割合も35%と、通常の村落同様に過疎と高齢化の一途を辿る悩める村であった。 

今昔において、往時は北海道最古の茅沼炭鉱で栄え、現在は北海道唯一の原子力発電所を有し、“エネルギーの故郷”でもあり、泊村は昔から北海道のエネルギーの供給基地であったのだ。


茅沼炭鉱は、19世紀中頃の江戸・安政年間、一介の漁夫によって茅沼の山中で「燃える石・石炭」が発見された。  
鉱山は、英国人技師を招き日本最初の鉄のレールを敷き、大量の石炭を貨車に載せて港まで出炭する方法が採られた。 
いち早く外国の先進技術を取り入れ、石炭採掘を遂げた茅沼炭鉱は北海道最古の炭鉱として、百有余年、北海道開発の重要エネルギー資源として貢献し、、北海道の発展に広く大きな役割を果たした。

その後、その茅沼炭鉱もエネルギー転換政策によって昭和39年に閉山になり、108年の歴史を閉じた。
炭鉱で栄えた頃は約1万人が泊村に住み、その約半数が炭鉱のあった茅沼地区の人達だったという。 茅沼地区の奧に、かつての炭鉱のズリ山が今も残っている。


次に泊村は、平成に入って「原子力発電所」が稼動し営業運転を始めた・・、 

現在は1・2号機が稼動中で、更に平成21年頃に向けて第3号機を準備中とのこと。
泊・発電所は現在、1号機、2号機が順調に運転を続け、その発電設備容量(出力)は115万8千KWで、北海道の電気の約3割を賄う重要な電源となっている。 
又、三号機(目標・出力91万2千KW)が加わることにより、泊村は“北海道最大の電気エネルギー基地”となり、21世紀の北海道の暮らしや産業を力強く支えると期待されている。

3号機増設計画については、先般、東海村JCO臨界事故により、原子力の安全性に対する世論が一段と激しさを増したいる。
だが、こうした中、地元民や関係漁協や経済団体などが「条件付き賛成」といち早く表明し、また、周辺の各町村にも了解を得ながら、色々な角度から慎重に審議し、現在は、平成21年12月の営業運転開始を目指し、本格工事に入っているという。

いずれにしても道内の人口2000人足らずの最も小さな村は、今、最も豊かな村でもあるという。
漁業と観光が主産業であろうが、発電所の固定資産税や国の電源開発交付金により、同村は北海道内の市町村で唯一、地方交付税をもらっていない不交付団体の地域である。

泊村は北海道・全道の生活面で、江戸時代から大きな影響力を持っていたことに、あらためて驚きを禁じえないのである・・。

紀行(45)古平・余市 「トンネル事故」



「豊平トンネル岩盤崩落事故」で・・、


先ほど通った古平町の地点まで戻った。
すぐ横を流れ、海に注いでいる古平川の河口には、秋サケの遡上を見物する人や釣り人で賑わっていた。
秋サケは秋(今頃・・)になって、北海道や東北北部で育ったサケが故郷の河川に近づいたもので、川を遡って産卵する。

一般に秋アジ(秋味)とかギンゲ(銀毛)とも呼ばれているようで、産卵のために全身が銀色に輝いているが、卵巣・精巣に栄養が移っているので身肉の脂肪分はかなり少なくなっているともいう。
身は細って栄養価が低く、食用としては一般的でないと言われるようだが、オスは食用に供せられる・・? 
北海道ではアキアジ、東北ではギンゲなどと呼ばれているようである。

鮭の中で、旬である秋以外(春から夏にかけて)に採れるののを「時知らず」というらしいが、 最近では省略されて単に「時鮭」と呼ばれる。 

卵巣・精巣がまだ成熟していず、 身肉に脂があるので大変美味で、ロシア北部の河川などで生まれで、回遊中に日本の近海で漁獲されたものをいう。
他に、時期になると真っ赤になるので「紅鮭」といわれ、身の色も赤身が強く、見た目の美しさで喜ばれる。
塩鮭には最高の魚で、 コクのある旨みとほんのりとした甘味がある。主に北米で漁獲されるが、日本でも北海道でごくまれに採れる。

又、洋名で「トラウトサーモン」とは、ニジマスの養殖鮭の事を言い、チリやノルウェーで養殖されたものを言う。
ほとんどの寿司屋などで出される「サーモン」はこのトラウトのことらしい。 
キングサーモンは、北太平洋、ベーリング海、オホーツク海、日本海に分布しており、鮭の中でも一番大型で、最大で1.5mにもなる。 
スモークサーモンやステーキとしてよく使われる。

鮭の一生は、多くは秋ころ日本に帰ってきて、産卵・受精し、産み落とされた卵は、約2ヵ月でふ化して稚魚となる。卵の中の栄養分を吸収しながら育った稚魚は、虫などを食べながらさらに成長し、そして川を下って海へ出、海へ下った稚魚はその後、沿岸に沿って移動しながら北洋へ向かい 4歳頃になったときに、自分の生まれた川に戻り産卵し、ほどなく鮭はその一生を終えるという。
ところで、我々が食しているのは、一体何処のどんなものなの・・?



更に、古平から余市にかけても険しい山合いが続く、そしてトンネルも多い。

以前にこの辺りでトンネル事故が有ったのを思い出した。
豊平トンネル岩盤崩落事故」で、それは、「大岩塊がトンネル上部を突き刺していた」、そのような映像や記事が未だ記憶に残っている。
1996年2月10日、土曜日朝8時頃であった。 

豊浜トンネル(国道229号線 古平−余市の中間地点)の上部にあたる巨大岩石(最大高さ70m・最大幅50m・最大厚さ13m・体積11,000m3・重さ27,000t)が大崩落し、トンネルの入口から約40mにわたって天井部分を押しつぶしたのであった。

この事故で余別発、小樽行きの路線バスと乗用車1台が巻き込まれ乗っていた20名が亡くなった。 
崩落した岩盤を取り除くのに手間取り、バス内の遺体が収容されたのは事故から1週間後だった。
バス19名に乗用車1名、計20名あまりの尊い犠牲を出した豊浜トンネル岩盤崩落事故現場。
現在は新しく改修され、事故の痕跡を見る事はない。 


小生が通った新しい豊浜トンネルは、旧豊浜トンネルと旧セタカムイトンネルを、事故のあった現場手前から迂回する形で繋ぎあわせたらしい。 
二本のトンネルを一本とし、長くした形で開通している。 
つまり、豊浜トンネルとセタカムイトンネルの半分ずつをそのまま利用している事になり、これは事故で亡くなられた遺族達の強い要望によるものともいう。

尚、この辺りは元々、旧の国道(R229)が海岸沿いに走っていて、旧豊浜トンネルと旧セタカムイトンネルが在った。 
その後新道が山側に出来たため、旧トンネルと並行して新たに二本にトンネルが造られた、これが二代目のトンネルである。無論、事故のあったのは二代目トンネルの「豊浜トンネル」であった。


事故後は、この両トンネルの途中から掘り進んで繋ぎ合わせて一本のトンネルにした、いわば新新豊浜トンネルともいえる。 
つまり、この地は旧トンネルと事故が発生したトンネル(新トンネル)と、それに事故後山側に造られた新トンネルと三本のトンネルが平行して存在するのである。 

海岸際の旧両トンネルはコンクリートで封鎖され、勿論、事故のあったトンネルの不使用部も閉鎖されていて、事故現場を見ようと思っても、内側に当たるため陸上ルートからは不可で、船で直接行くしかないのである。 

古平側の新豊浜トンネルの入り口にセタカムイ「防災記念公園」駐車場があり、その一角が慰霊公園、山際に慰霊碑がある。

因みに、古平町(ふるびらちょう)という町名は、アイヌ語の「フィーピラ」(赤い崖)から付いたそうである。


余市には空飛ぶ有名人がいた・・??、


昭和47年に札幌で開催された、冬季オリンピックのジャンプ金メダリストの笠谷幸生、平成10年の長野オリンピックのジャンプで大活躍した斉藤、船木の両選手(ジャンプ競技は白馬村で開催された。

小生別宅のすぐ近くで、記念館等が有る、原田をはじめあの時の感動は今も記憶に残る・・)、そして平成4年、12年の2度にわたり、スペースシャトルに搭乗し様々な科学実験を行った、「毛利衛」氏もそうらしい。

尚、積丹半島、小樽は巻末の「温泉・観光」の項で記載してます。

次回は、「札幌」   PARTTへ
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