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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月31日 延日数 第10日
出発地 安芸・宮島口 出発時間 5時50分
到着地 佐賀・唐津 到着時間 17時00
天 候 晴、28度暑い 体 調
走行道路名 R2、R188、県149、県68、山陽道、R2、九州自動車道
R3、県59、福岡高速、西九州道、R202
主移動地名
岩国⇒徳山⇒小郡⇒小野田⇒下関・門司⇒大宰府
⇒海の中道⇒佐賀・唐津
現在(宿泊)地 唐津・虹の松原ホテル(国舎)
道の駅・PASA 山陽道・防府PA  関門橋・壇の浦PA
温 泉 唐津・鏡山温泉
名所・旧跡
錦帯橋  関門橋  海の中道  大宰府天満宮  唐津・虹の松原

写真集 U

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 3540 今回入油 38.6 本日支出 5105 本日支出 4709
昨日表示 3146 前回累計 205.9 前日累計 26746 前日累計 54224
走行距離 394 今回累計 244.5 本日累計 31852 本日累計 58933
総距離 3540  . . . . .

西日本編   10日目:PartT(岩国、防府、山口)   PartU(厚狭、九州、小倉)へ
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日本周遊紀行(100)岩国 「錦帯橋」


写真:新装成った「錦帯橋」



有名な「錦帯橋」は近年の平成年間、橋体部分の架け替え工事で新調された・・、

窓の下、ガラス戸越に、ひっきりなしに車の騒音、特に大型トラックの騒音は地響きを発して部屋を揺らしながら通り過ぎる、まんじりとも出来ない。 
ここは宮島口、桟橋から、ほんの僅か、「宮島Y・H」(ユースホステル)の宿舎である、天下の国道2号線が真下を通っていた。

昨夜は「養老の滝」で一杯やりながら食事をしたが、些か飲み過ぎたせいと旅の疲れも手伝ってか、宿に戻ってからは直に就寝してしまった。 
騒音で気がついたのは午前2時を回っていた頃で、それ以来騒音に悩まされた。
おまけに、蚊のブーンという羽音が時折顔をかすめて、マンジリとも出来ずに眼が覚めてしまったようだ。 
午前5時であった、車の騒音は益々激しくなり、遂に、我慢がならず起き上がって、目覚まし代わりに近くへ散歩に出かけた。


昨日、世話になった宮島口の桟橋へ・・、

宮島への一番船は6時頃であるから未だ閑散としている。
昨日は慌しくて気が付かなかったが、すぐ隣に広島電鉄宮島線の「宮島駅」が在った。
その奥、海岸沿いには大きめの駐車場も在り、岸壁では早釣り人が糸を垂れている。
少しスッキリしたところで宿へ戻り、身支度をし裏口よりソッと出達した、むろん宿賃は昨日の内、清算済みである。

やはり国道2号線は、阪神地方、広島方面へのトラックが多く目立つ。
これから向かう逆方向の下関方面はさほどでもなく助かる。

大竹市内の街道へ来たとき「吉野屋」が目に付いたので、早速、朝食にあり付いた。
小生お馴染みで好物の「朝定」である。ご飯に味噌汁、納豆、卵、海苔、漬物に薬味と合わせて370円は有り難く、大満足で吉野家様々であった。

大竹の市街を抜け小瀬川を渡ると、ここは既に本州最西端の長州・山口県である。

本州の果てだというのに江戸幕府を転覆させ、近代明治以降、初代の伊藤博文以来7人の総理大臣を輩出している。
中世(戦国期)の毛利元就が、この山口県を形造ったといってもよいだろう。
この毛利家の大元は、小生の住む相模の国「厚木・毛利の庄」から転封・移住していった事は余り知られていない。 

又、小生の故郷、出身県の福島(会津)とは大変な因縁で、いまだに確執が続いているという。
このことは後に記すとして、いずれにしても「山口」とは只ならぬ県であることは事実のようである。


先ず、その歴史と名勝の「岩国」へ向かう・・、

岩国の埠頭を左に見ながら国道2号線は市の郊外を行くと間もなく自然豊かな錦川の袂へ出る、川岸を少し戻るとあの「錦帯橋」であった。 
川向こうには、新緑に包まれた急峻な「横山」が居座って、山頂に岩国城(要害山・横山城)の華麗な姿が白く光る。 
この要害山・横山をグルッと巻くように錦川の清流が勢いよくキラメキ流れてる。 
この要害山城内の大手門筋と錦川を挟んでの城下町とを結んで掛かる橋が、日本三名橋・三奇橋と言われる「錦帯橋」である。

山頂に遠く鮮明に光る要害山・岩国城は、1601年(慶長6年・江戸開府時)より7年がかりで吉川広家(きっかわひろいえ)が築いたお城である。 
岩国藩主・広家は、毛利元就・「三本の矢」で知られる長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の内の元春の三男で、元就の孫に当る。

広家は、勇将で知られた父や兄と違って知将であり、秀吉もその手腕を高く評価していた。
秀吉亡き後の関ケ原の戦いの時、広家は豊臣方に勝ち目がないと見て、密かに手をまわし取引をした。戦わない(西軍には付かない)ことを条件に毛利氏の中国八ヵ国の領土安泰を保証するという約束を家康にしたのである。

結果は、広家は戦わず西軍が勝利を収めたが、毛利氏の当主であった毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ出されていたため家康の怒りをかい、本領安堵を反故(ほご)にし改易を命じた。 
広家はこれを不服とし抗議、直訴し、どうにかこれが認められて領国・岩国三万石の所領が安堵された。 
しかし、毛利家中では裏切り者扱いをされ、その扱いは幕末まで解消されることはなく、岩国藩も藩ではなく、あくまでも吉川家は長州藩主・毛利家の陪臣として扱われた。 
この直訴によって三万石の所領を持ちながら、広家は諸侯として扱われず、これに対して不平不満を一切言わず、父・元春や毛利家のために忠節を尽くす。 

二代広正、三代広嘉のときから本藩復帰を切望し、強く本家の萩藩に「昇格」を願い出たが聞き届けられず、それが実現したのは幕府が倒れた後の明治元年(1868年)であったという。
「錦帯橋」は、こんなお家の事情の最中に二代目広正、三代目広嘉によって建造が始まるのである。 


江戸期、長州(周防・長門、毛利氏の藩領)にかけられた主な橋は本藩・萩の橋本大橋、松本橋、そして岩国の錦帯橋だという。 
この三つをくらべると、橋本橋、松本橋の長さがいずれも80メートル前後であるのに対し、錦帯橋は当時200メートルという桁はずれに長い橋であった。

岩国川(錦川)に最初に橋をかけたのは吉川家二代の広正である。
数次、数回にもおよぶ架橋であったが、その都度大水によって流されてしまい、三代の広嘉によって何とかして流れない橋をと自から工夫して遂に成功させたという。
これには甲州(山梨県)大月にある「猿橋」(日本三奇橋)と中国の西湖にかかる橋(その名も錦帯橋)を参考にしたと言われ、石組みをした橋脚にゆるやかな五連のアーチを描く名橋・錦帯橋が誕生したという。 
全長 200m、幅 5m、橋台の高さは 6.6m 、一本の釘も使われず、巻金とカスガイで組み上げられている。 

二半世紀にわたる吉川家の大名昇格運動の情熱が、そのままこの橋の建造架橋にも注がれ、天下に誇る名橋と同時に、吉川家の名声を世に示したものと言える。
美しい五つの弧を描く錦帯橋は「大名への夢の橋」、「 虹の架け橋」だったのかもしれない。


現、平成期、五連の中央アーチ部分が、50年に一度の「平成の架け替え」の大工事がおこなわれた。平成13年11月に着手、総事業費は、架け替え工事が見学できる迂回路の仮設道路の設置費を含め、約26億円の費用が嵩んだという。渇水期の冬季11月〜3月に現地での作業が行われ、中央部、横山側部、岩国側部を経て平成16年3月に新しい「錦帯橋」が誕生している。

真新しい木肌が光る錦帯橋は、周りの景色に溶け込んで調和と優雅な姿を余すことなく表している。
因みに、材料、使用箇所、産地は次のようである。マツは橋桁、梁で新潟、山形、福島産。 ヒノキは敷板、段板、高欄で長野(木曽)産。 
ケヤキは橋桁、敷梁で岐阜、島根、山口産。 ヒバは橋杭、貫で青森(下北)産。 クリは桁、梁の雨覆いで新潟、山口産。カシは太柄で山口産。


橋の端に「名勝 錦帯橋 内務省」と石碑が在った・・、

橋の袂に近づいて見るとさすがに、デカイ・・!、
大波の様なアップダウンがあるから、向こう側から来る人は橋板の上にまず頭から見えてきて、「谷」に入ると下半身から見えなくなって、やがて全身が消えてしまうほどである。 
静かに歩を進め、弧の天辺に立つと、これまた絶景で、川面を眺めると静かな水面でカモが羽をつくろっていた。


色々と説はあるが・・、

『 日本三名橋 』:お江戸・「日本橋」、岩国・「錦帯橋」、長崎県・「めがね橋」
『 日本三奇矯 』:岩国・「錦帯橋」、甲斐大月・「猿橋」、四国・祖谷地方の「かずら橋」とも言われる。

名橋・「錦帯橋」を堪能して次の行程へと進行しよう。 

国道188の海岸線を行く、しかし、この通路は間違いであった。
丁度、今時分は通勤、通学の時間帯であり、周辺に側要路が無いことから上下線とも大渋滞であった。ノロノロ進みながら、岩国市の南端に当る山陽本線「通津駅」辺りから内陸へ向かった、県道149号線から大原のR437を横切って更に県68号を行く。 
今までの渋滞が嘘のように、立派な舗装道路を快適に飛ばす。 緑濃い田舎の道で、「目に青葉・・・」を満喫しながら、やがて山陽道を真近に見ながら徳山の郊外に達したようである。

尤も徳山といっても、今は地域名で、行政名は「周南市」と称しているようである。
一昨年、2003年(平成15年)徳山市、新南陽市、熊毛町及び鹿野町が合併して誕生している。


戦国期の元就の時代、中国地方全域に覇権をほこった毛利氏も、関が原以降の江戸期になると周防・長門の2つの国に封じられている、今の山口県である。 

この県の東南部地域を指すとき「周防の国の南」、一般に周南地域、「周南」と呼ばれていたようである。 
昨今の合併で、平仮名文字や意味不明の地域名が新しく誕生している中、新市名で「周南市」としたのは、さすがに歴史を重んじる地柄であると納得であった。

戦前は、旧徳山市沿岸地区には海軍燃料廠があり、その縁で石油精製関係の産業の呼び水になった。戦後、周南地域では徳山曹達、出光興産をはじめとする、石油化学コンビナートが発達し、関西地区でも有数の一大工業地帯となった。

又、ふぐの水揚げ量は、全国の80%が下関であるが、ふぐの延縄(はえなわ)漁法発祥地は旧徳山市の粭島(すくもじま)であると言うわれる。 
島という地名ながら、大華山(362m)のある半島(大島半島・・?)であった。
大島の先端につながったその最南端部は、笠戸島を含む大小の島々の域で、この周南海域は隠れた「ふぐ」の本場としても知られる。 

河豚は、ここでも「福」につながるようにと濁音を使わず、「ふく」と発音しているようである。

次回は、昔の首都・「防府」

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日本周遊紀行(101)防府 「周防国衙」



防府は、古代・「周防国衙跡」を中心とした町の区割りが、今も残る・・、

国道2号線のすぐ横を山陽道が走っていて、そこの徳山東I・Cから高速道へ乗っかる。 
走り始まって間もなく昨夜の寝不足の影響が早速現れた。
防府の北側を通っいる佐波川が見渡せるところ、佐波川S・Aにて朝の軽食を摂りながらチョッと仮眠をする。
一級河川の佐波川に沿って高速道、主要国道が走っていて、その南側に防府の市街が広がっている。 
佐波川(さばがわ)は、昔、河口で大漁に「鯖」が獲れたことから佐波川という名前になったという。
名残として佐波川の北、山口市との境峠に「鯖山峠」があり、やや上流地域の徳地町に「鯖河内」などという地名もある。
一級河川佐波川は、下流に県内最大の扇状地・防府平野を形成し、防府の町の基礎・土台を形造っている。


奈良時代になると律令国家としての機能が整備され、国境が決まり、一国一郡一里(郷)の行政区分が出来上がる。
それにともなって、各国を治める行政機関として置かれたのが国府であり、この防府にも周防地方の中心として「周防国衙」が置かれてる。
同時に都と地方を結ぶ道が整備され、山陽道が造られ、行政の中心となる国府(国衙・こくが、ともいう)が完成する。
合わせて官寺・周防国分寺が建立されている。


佐波川とJR防府駅との間には、各所で国衙の史跡(史跡公園)、周防・国分寺といった永い歴史の足跡が残る。
国分寺とは、奈良期、聖武天皇が国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ、)とともに建立を命じた寺院である。
各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ国府のそばに置かれた。
多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。その頂点にあったのが大和国の東大寺、法華寺で総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。

現在、多くの官寺としての国分寺は史跡として残っていても、往時の建造物として現存するのは少ないが、「周防国分寺」は創建当初の様子で境内には今も往時の伽藍を残すきわめて珍しい例として知られている。 山門(仁王門)をはじめ、二重構造の大屋根・本堂大伽藍は、総本山・奈良東大寺に類似すると言われる。

現存する国分寺としては、創建当時の伽藍にかなり同一又は、類似した位置や建物に近いものとされている。
仁王門は400年以上も経過したもので、1596(文禄5)年に毛利輝元が再建したものとされ、両脇には、室町時代の仁王像が安置されており、ともに県の文化財に指定されている。 

本堂である金堂は、二層入母屋造りになっており、1779(安永8)年に毛利重就(しげたか:周防八代藩主、後の長州八代藩主)によって再建されたもので、これも国の重要文化財に指定されている。
平成の大修理を終えた金堂には、重要文化財となる本尊薬師如来をはじめ、50余体の仏像が安置されていて、さながら「曼陀羅」の世界観を形作っているともいう。

又、国分寺と周防総社(佐波神社)の南、東西を貫く古山陽道に接して建物こそ現存しないが国衙跡が残り、この地が古代の都の中心であったことが観えてくる。
証拠に、防府の町並みが国府跡を中心に、碁盤の目のような条里制の区画であることも伺える。 

他の国府跡が多くは不明となっている中で、ほぼ往時の姿で残っている理由としては、周防国は奈良・東大寺の知行国となったために、東大寺から役人(目代僧)が派遣され政治を執り、近世になっても東大寺領として治外法権的地位を維持できたからともいう。

今、平成9年から平成16年までの8年間に及んだ金堂の「平成大修理」を終え、周防国分寺の歴史が再び歩み始めたという。
この近辺には、毛利庭園や防府天満宮といった歴史的名所が点在する。

次は「山口」

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日本周遊紀行(102)山口 「防長の政庁」



山口は、政庁のあるローカル都市であった、それは・・?

山陽道・山口南I・Cを下りて再び、国道2号線を行く。
小郡駅前付近を通るはずであるが小郡駅という表示は無く、「新山口駅」と成っている。 2003年10月1日付で小郡駅から改称していたという。 
無論、新の付かない山口駅は、北部・内陸地の県庁の在る「山口市」で、山口線の駅である。


この小郡町は、西日本旅客鉄道の山陽新幹線 、山陽本線 、山口線、宇部線と4車線が集合する地方都市としては珍しい鉄道の拠点であり、又、中国自動車道、国道2号線が南北に挟み地方道も集散している道路網の集合拠点でもある、所謂、恵まれ交通の要衝なのである。 

そして、一昔前は旧山陽道に面し、町の東側を南北に大きな椹野川(ふしのかわ)が流れ、昔は藩米をこの川の倉庫に集結して大阪、神戸に運んだのである、町名に船倉町というのも在る。
このような地域が、行政上では「町」という1ランク下の公共地なっているのは珍しいという。 
こんな「小郡」であるが、この町は以外に歴史的意味合いでは痕跡が少なく、歴史的建造物が皆無だという。 
これは旧都、「防府」を西に控え、現都、「山口」を北に配されていて、忘れ去られた町ではなかったのかとも言われるし・・?、呼称も「小さな郡」としたのも頷ける。 


近年、新幹線が開通するに及んで、やっと街の息吹きが感じられ、2005年10月1日には 近隣の小郡町、秋穂町、阿知須町、徳地町と中央市庁・山口市の1市4町と合併するに伴い、新生「山口市」として新しい街造りが約束されているという。 
小郡地区は県庁、市庁の山口の出先機関、産業政庁として大胆な都市計画、複合的商業施設、テーマパークなど可能性が膨らんでいるとも言われる。


さて、政庁「山口」である・・、


山口は室町期(南北朝時代)、中国地方を支配した大内氏の本拠であり、町造りの基礎は大内氏によって行われたと言っていい。
応仁の乱(おうにんのらん・1467年 - 1477年、室町時代の八代将軍足利義政のときに起こった内乱で、幕府管領の細川勝元と山名持豊〈出家して山名宗全〉らの有力守護大名の争い)以後、乱を逃れてきた文化人を歓迎したことで「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めたという。

1551年、大内義隆(義興の子)が、家臣の陶隆房(すえ たかふさ)の謀反によって殺される。しかし、隆房もまた安芸・厳島で「毛利元就」と戦い、謀略をもって敗れている。 
大内氏滅亡後は、「毛利氏」の支配下に置かれ、山口奉行が置かれたことから防長(周防・長門=山口県)の政治の中心となった。 

毛利元就といえば「三本の矢」(戦国の世、お前たち3人が結束すれば破れることはない)の故事が有名であるが、毛利家は鎌倉期創生の頃の頼朝の事務方重臣・大江広元が家祖である。
中国地方に「毛利」の名が起こったのは、その子「季光(すえみつ)」か軍功にり安芸国・吉田荘の地頭職を賜ったことから始まる。

毛利という名字は、広元が頼朝より与えられた相模国・毛利荘という荘名に由来する。
つまり、分割相続で毛利荘を与えられた四男・季光が、同所に居住し、その荘名をとってそのまま苗字としたわけである。
毛利氏の苗字の地である毛利荘は小生の在住地、神奈川県厚木市の北部から愛甲郡愛川町の南西部にかけてのあたりとされ、現在も毛利地区、毛利団地、南毛利といった地名が残っている。


山口である・・、


関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元(三代目・元就の孫)が、萩に築城し政治の中心を移したため、山口は萩と三田尻(防府の港、古くは塩田として栄えた)を結ぶ交通の要衝として栄えた。
(萩については後述) 

幕末には、再び藩庁が萩より山口政治堂に移され、討幕運動の拠点になる。
明治になると県庁が藩庁敷地内に設けられている。


山口市は、市街地は県のほぼ中央に位置していて、南端は瀬戸内海(山口湾)に面する。
昔から道路網が良く整備されていることから、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来る。市域の中央を南北に椹野川が貫き、その両岸に盆地・平野が広がる。
だが、室町時代には「西の京」と呼ばれた山口であるが、近年まではローカル線の「山口線」しか走っておらず、市の中心部には山陽本線が乗り入れてない。 
言わば政庁のあるローカル都市であった。 

これは、山陽本線建設時、銭湯小路の宿主が「宿場町が寂れるから」と鉄道敷設に反対した為であるともいう。(明治の人々が鉄道建設による悪影響とする不安をもち、鉄道や駅を町から遠ざけたという鉄道忌避伝説がある)
このことは他府県の県庁所在地に比して、山口の町が大きく発展しなかった一因とも考えられている。現在でも人口規模では下関市に次ぐ存在であり、全国の県庁所在地で、最も人口や人口密度、そして平均地価が低いことでも知られる。

新山口市となって、南部の小郡地区が県内でも屈指の交通の要衝となっていることから、特に小郡地区を中心として商業、流通業の発展が見込まれ、在京・在阪の多くの企業が小郡に支店や営業所を構える様相でもあるという。

次回は、厚狭地区    PartUへ

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