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日本周遊紀行(134)由布院 「由布院温泉」




写真:由布院の瀟洒な「湯の坪通り」と「ゆのつぼ温泉」


鎌倉期より開けていた由布院は、江戸期には閑散としていた・・?、

金鱗湖から流れ出る小川に沿って行くと、堂々たる屋敷の門があった、昔は家老の御屋敷だったそうで、その門構えに「由布院民芸村」とあった。 
湯布院の人気スポットで、幕末から明治期の民芸品を収蔵した民芸民具館でいわば資料館のようなものらしい。


帰路、お目当ての「ゆのつぼ温泉」の共同湯へ向かう・・、
 

瓦屋根が二重構造の民家風の小さな木造で、引き戸の玄関上に木板で大きく「ゆのつぼ温泉」と書かれてあり、粋な雰囲気を出している。 
料金箱に入湯料を入れ扉を開くと右が女湯で、左が男湯になっている、竹を編みこんだ天井など細かいところに工夫がしてあり、木目が鮮やかな木の壁や床が明るく清楚なイメージがもてる。 
本日の開場したばかりと見えて、洗面具等はキチンと整理されている。 
浴槽は中にも藍色の石ダタミを敷くなど、見た目にもその木材と調和していてかなり落ち着いた雰囲気を出している。 
湯舟の縁からは惜しげもなく湯が溢れていて、無色透明、無味無臭の単純泉だけれども、触ると温度はかなり熱い、分析表によると泉温は64度とあった。 
湯舟の湯はさすがにそこまでは熱くはないものの、かなりの高温ではあった。熱いので湯船に長く浸かることなく、縁で「掛け湯」を楽しみながら湯舎を出た。

因みに、金鱗湖の湖畔にも「下ん湯」(したんゆ)という妙な名前の半露天の混浴施設がある。


陽光が燦々として眩しいくらいだが、路地の樹木の緑が補ってくれる。 
人の群れも一時より増えてきたようで、ツアーの団体客も目に入る。やはり御婦人方、若い女性、カップルが目立つ。 
今日は6月6日の月曜日の平日である、にも拘らずこれだけの人出である、週末の休日などは相当な人出であることが想像できる。  


ところで、ここの温泉地の本来の名称は、由布院地区にある「由布院温泉」である・・、

昨今、観光案内で「湯布院温泉」などと表示される場合があるが、「湯布院」という名称は先にも記したが旧湯平村と旧由布院町が合併した際に作られた町名である。 
湯布院温泉とすると由布院温泉と湯平温泉のことで、更に塚原温泉も加わることになる。従って本来は湯布院町の三つの湯で湯布院三湯が正しい。
現在は、由布市三湯(由布院温泉、湯平温泉、塚原温泉)であるが・・。 


尚、現在では知名度の向上に伴い「由布院」と「湯布院」の使い分けについての理解もある程度進んでいるが、その一方で状況は一段と複雑になっているともいい、その為、「ゆふいん温泉」、「ゆふいん」という平仮名表記が用いられることも多くなっているともいう。
この表記は「由布院」なのか「湯布院」なのかという区別を一層曖昧にする結果を生んでいるともいえる。

ともあれこれら三つの温泉群からの湧出量は、別府温泉に次いで全国第二位であるとか。 
中でも由布院が湧出量・孔数とも断然多く、なんと740を超える源泉孔からは毎分40KLの温泉が湧出しているという。 
江戸時代から使われていたと言う共同浴場は金鱗湖畔に佇む茅葺屋屋根の小さな湯小屋「下ん湯」をはじめ14ヶ所があり、外来観光客は勿論、地元の人たちの憩いの場として利用されている。泉質は主に単純泉で効能は神経痛、筋肉痛、関節痛など。

奈良期には既に開かれ、鎌倉期から効用のある温泉として広く知られていた由布院であるが、江戸時代になって突如としてただの村人だけの行水(ぎょうずい))の湯になってしまったと言うのである・・?。

16世紀頃までは由布院はキリシタンの里であった、しかし、江戸期になって、この平和な村にキリシタンの弾圧が襲ってきたのである。 
全村民がキリシタンだったような由布院は、やむなく一部の信者を除いて殆どが改宗してしまったともいう。(今でもその隠れキリシタンの痕跡が墓石などに残っている)。 
由布院に対する監視の目は厳しく、キリシタンの疑いを避けるためにも、村人が行水する以外、外部の人は誰も湯治に来なくなっていた。ここに由布院温泉の陰の歴史が秘められてたのである。


由布院が湯治場として再び活気を帯びるのは明治維新後のことで明治中期、近隣に陸軍の演習場ができ、陸軍のお偉方や兵士たちが旅館や民家に宿泊し、温泉気分を満喫するようになってからである。

湯布院には今も自衛隊の駐屯地があり、日出生台(ひじゅうだい)演習場(湯布院町、玖珠町、九重町にまたがる西日本最大の演習場)からは時折、砲撃音が聞こえるという。


写真:金鱗湖と由布岳 (右の湖畔に見える茅葺屋根が共同湯・「下ん湯」)


由布院には、更に大分−佐賀を結ぶ佐賀県道が開通し、大分−由布院間に鉄道も走るようになった。そして何処も同じようにこの町も歓楽温泉地と化していこうとしていたのである。 
これを憂いたのが油屋熊八をはじめ、江戸時代からの庄屋たちや医者、外部から訪れた学者たちであった。 
油屋は由布院の名勝宣伝文として「朝かすみ・四季蛍・山のみどり・木々の紅葉・杉の大木・興禅院・八山地獄・蕨狩り・若宮八幡・六所宮・石松公園・倒映湖・人と魚の混浴・下の湯」を挙げている。

熊八に案内されてやって来た客人たちは、仙郷・由布院盆地の美しさに感動し、その後も度々自らこの自然の素朴な温泉地を訪れたという。 
客人は、由布院で遊んできたと言うより、由布院で癒してきたと言ったといい、勇壮な姿で由布院盆地を包み込むように聳える由布岳や美しい金鱗湖、そして変わらない純朴な農村風景、町の人々の生活がそのまま由布院の歴史を伝えている。

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日本周遊紀行(134)由布院 「湯平温泉」



写真:鄙びた石畳の坂道・「湯平温泉通り」(木造の四階建てに注目)



石畳の、鄙びた、歴史ある、温泉・・、

湯布院町(由布市)の三番目の温泉場・「湯平温泉」へ向かう。
駅前から11号線、更に南由布院駅辺りから国道210号線(大分・湯布院道)を行く。 
山峡の地に久大本線が並行して走り、谷底に大分川の清流が光る。 辺鄙な山間地なのに意外と車の数は多い、やはり別府市、大分市という大都市に近いせいもある。 

湯平」の文字が出てくる案内に従って、右折すると間もなく温泉地らしい町並みに来た。 
湯平地区は、昨日訪れた九重方面への“まなみハイウェイ”へ通じるのルートでもある。
湯平温泉は山間の川沿いの狭いエリアに開けた温泉地らしく、一寸、車の置き場に困るようなところでもある。 
車を下りて今度は“ツッカケサンダル”で歩くことにした、草履サンダルより下駄が似合う町並み、否、路地である。

温泉街は石畳の坂道通り沿いを中心に約30軒程の温泉宿が並ぶ、小ぢんまりとした湯街である。 
シンボルともいえる石畳をゆっくり歩を進める、歩くうち意外と坂が急なのに驚く、“湯平温泉”ならぬ“湯坂温泉”であろうと皮肉りたくもなる。 
道脇に、石を刳り貫いて造作したと思われる石灯篭が石畳の道筋に等間隔に設置してある。ボンヤリ灯りで、夜の温泉情緒を盛り上げようというのだろう。


「石畳の坂道」、この石畳には約300年の歴史があるという・・、 

江戸後期に湯町の篤志家(工藤三助)が現在の石畳を作ったのがきっかけで、凡そ500メートルも続く石畳の急な坂道である。 
尤もであるが何故、階段にしなかったのかかなと素人的疑問も生じるが・・?、雪の日は大変だろうな、足腰の弱い人は階段に腰掛けて休みながら上れるのに、だが階段にすると施工が大変か、などと感じながらも個人の「志」で行ったとすれば納得でもある。

石畳は300年の経過があるが、湯平温泉そのものは由布院同様、鎌倉時代より開けたといわれ古い歴史のある温泉場である。 
江戸期に温泉地としての骨格が出来上がり、それ以来、湯治場としての発展をつづける。貴重で豪華な木造四階建ての旅館が建ったのもこの頃で、今もその建物が一部残っている。
大正から昭和初期にかけて一時代を築き上げた湯平は文人・墨人も多く訪れている。
   

  わたしゃ湯の平 湯治のかえり 肌にほんのり 湯のかほり 

と詩人の野口雨情が詠っている。


また、山頭火は地元の人情に触れた様子やその思いを

 『 しぐるるや 人の情けに 涙ぐむ 』

という句に残し、真新しい石碑が石畳に入り口に建つ。

最近では、1982年(昭和57年)に湯平で『男はつらいよ 第30作 花も嵐も寅次郎』がロケ撮影されてもいる。


温泉といえば観光地としてのイメージが強いが、湯平では昔から熟年層を主とした湯治場としての伝統をかたくなに守っているようで、客層も「癒し」や保養を目的とした利用者が多いという。 
周囲を大自然にひっそりと抱かれて湧きつずける湯の里・湯平は、昨今では由布院の奥座敷としても知られ、訪ねる愛湯人が次第に増えているという。 
温泉は薬効も充分あり、飲めば胃腸に良いともいわれて湯平の旅館ではお茶のかわりに温泉のお湯が客に出されるという珍しさである。


石畳通りに入ったすぐ右側に「銀の湯」があった、格子戸の引き戸が感じいい。
他にも湯平には五つも共同湯があり、下から「橋本湯」、「銀の湯」、「中央温泉」、「中の湯」、「金の湯」とある。 

中でも中央温泉はごうごうと勇ましい音を立てて流れる花合野川(かごのがわ)沿いの川原にあり、渓谷の美景が堪能できるという。 
川沿いにあるため度々建物が流されたともいうが、今でも川が増水すると川水が溢れて浴槽に入ってくることがあり、時には湯船の中に魚が入り込むこともあるという。 

魚と混浴・・、これ以上の風流はないが地区の人はその度に掃除をして大切に温泉を使っていると。



湯の街、最上部の「金の湯」


坂の一番上にある「金の湯」を訪ねてみた・・、


急坂を上りきってやっとこ辿り着き、最上部に架かる明治橋を渡り、階段を少し川沿いに下りるとコンクリートの白壁のガッシリした建物が「金の湯」であった。 

100円の入湯料を受け箱に入れて入室する、他に客はいなかった。 
浴室は大して広くはないがスペースの半分くらいが湯舟になっていて、長方形のタイル張りに蛇口から少しづつ湯が注がれている。 
湯の色は薄い赤茶色というか、如何にも効能が有りそうな湯で、少々熱い加減であるが何とか浸かれる。 奥に湯揉み用であろうか、木の板が立て掛けられているのが面白い。 
板に寝っころがってお湯を腹に掛ける、「掛け湯」といわれる温泉療法もあり胃腸病に効くともいう。 源泉はすぐこの上にあり、直接こちらへ引き湯しているという。 

ここの温泉は胃酸過多、慢性胃炎や腸炎などに効用があるという弱食塩泉で、飲めば胃酸の分泌を促し胃腸の働きを良くすることから「胃腸の湯」と古来から言われている。 


湯平温泉は、医療温泉の西の横綱ともいわれる天下の名湯ともいわれ、フランスのヴィシー鉱泉と並ぶとも称されているようだ。 
ヴィシー」とはフランスの温泉療養の町で、国中からこの温泉療法を求めに方々からやって来るという。


湯平温泉を満喫して、家路(双葉荘)を辿った。 
それにしても今日は朝から色んな温泉に浸かったが、これぞ温泉三昧とも云うんであろうか・・!、鉄輪温泉に戻ってからも勿論一風呂浸かるつもりである。

次回、「大分」   第17日目へ

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