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写真:鬼の国の象徴・「鬼ヶ城」


日本周遊紀行(39)尾鷲 「紀伊の鬼」



一鬼から九鬼、九鬼義隆、「鬼が城」そして鬼は修験道に通ず・・、


「尾鷲」はNHKのラジオ第2放送の気象通報でお馴染みの名称である。
「おわせ、風力3、晴、1013ミリバール・・・」。(今はミリバールとは言わないが・・) ところで尾鷲の北部

地域の大台ケ原や大杉谷あたりは日本国内で最も雨量の多いところである。 
この尾鷲では1968年9月26日、最大日降水量(1日の降水量)806mmという、とてつもない雨量を観測している。 
これは地域別にみると、国内の最高記録になっているという。
市の後背部は広大な山域を有し、温暖多雨な気候と合い間って尾鷲は林業が盛んである、中でも「尾鷲ヒノキ」は、鮮やかな赤みと強靱な良質の材木として全国的にもその名を知られてる。


又、江戸期から良港として知られている尾鷲漁港はブリの水揚げでも全国有数を誇る。
大正期には一面の浜は、足の踏み場が無いほど大漁が続いたという。
九鬼岬の氏神・九木神社の例祭はブリ漁が本番を迎える1月に行われ、「鰤(ブリ)まつり」としても有名だとか。
この九木神社は九鬼氏の祖を祭ってあり、その九鬼の祖は藤原隆信という説もある。

そして地名の九鬼は、あの九鬼水軍発祥の地であるともいわれる。(前項、英虞湾でも述べた) 
尾鷲の九鬼は市街地を抜けてR42が分岐するR311を行く、長い「九鬼山トンネル」を抜け入り江に出たところが「九鬼の浦」である。


南北朝の頃に佐倉中将(伊勢国、四日市奥の佐倉)と呼ばれた藤原隆信は、吉野南朝の宮廷に仕えた宮人であった。 
戦乱の末、九木浦へ落ち延びてからは藤原姓を改めて「九鬼氏」と称し、直ちに築城や水軍を養成した。

その後、勢力をのばし、紀伊の名族として知られるようになる。 
分家の九代「九鬼嘉隆」の頃は水軍を主力として、志摩の波切から伊勢鳥羽へと勢力を広げ、五万石の大名へと出世する。 
だが、こちら本家の九鬼家はこれに反して衰退してゆくが・・、


その「九鬼」ついて・・、
 

「くき」という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山や谷などを指すという。 
又、鬼は鬼道すなわち修験道のことで、「九鬼」のように上につけられた数字は修験道場の開かれた順番であるともいわれる。

平安時代から鎌倉・室町にかけて天台・真言などの修験僧や、また山岳信仰を奉じる修験者たちが各地に進出して修験道場を開いた。 
この熊野地方は新宮がその本拠で、新宮から1番目の市木は「一鬼」、二木鳥(二鬼)と東にむかい、尾鷲市内では三木里(三鬼)、七鬼、八鬼、そして九鬼と続くという。 

九鬼は、元はといえば修験道場として栄えた所で、それが地名になったのである。

序ながら九木神社は南北朝時代、後醍醐天皇をお守りして南朝を奉戴し、初め「九鬼神社」であったが、徳川政権時代に入って北朝に縁のある徳川氏の命により、南朝に寄与した九鬼氏の名及び関係する呼名を改めて「九木」としたものであるという。 


国道42は熊野の山深い矢ノ川峠を行く。

長いトンネルを越えた山中に「道の駅・熊野きのくに」が在った、そう、ここは既に熊野市である。 
時刻も昼時なので軽い食事を戴き、合わせて紀の国、木の国、「鬼の国」の清涼な雰囲気をゆったりと味わう。

面白いことに・・、
この道の駅・「熊野きのくに」の経営母体は、「鬼の国・物流共同組合」という。 
組合の鬼の字は、「オニ」と呼ぶか、「キ」と呼ぶか定かでないが、鬼の国からの由来であろう。 

この先の名勝に「鬼ヶ城」というのがあり、鬼は修験道に通じ深山幽谷、波濤打砕のこの地はいかにも鬼が出そうで妙に納得するのである。


吉野方面へ通ずるR309(東熊野道)と合流して、やがて熊野灘の御目当て「鬼ケ城」に出た。 
早速、「鬼ヶ城センター」為るものに500円の駐車料金を払って出向いてみた。
断崖絶壁・・というほどでもないが岸壁が奇妙な形をしていて目を引く。 
人力で造作したと思われる岩場の階段には転落防止の鉄柵が施してあり、若干のスリルも味わえる。 

千畳敷と言われる「鬼床」は造ったような広い平面盤で、その上部の巨大な岩魁が覆い被さっている。 ここでは雨露も凌げ、波濤と遥か大洋面を望みながら鬼(修験者)が修行するには好適地であるようだ。
隅っこで地元のおばさんが地元産品の小店を気だるそうにを開いていた。

鬼ケ城」は、伊勢志摩から延々と続くリアス式海岸の南端に位置し、熊野の山塊が熊野灘に突落ちてくる絶壁が、永久の時の波蝕作用で出来上がった洞窟である。 
岩場全体が名勝で、古くから紀州名物として親しまれている。 

鬼ケ城の海岸線に沿って、約1キロの遊歩道があり、この間には、熊野灘の荒波の浸食による大小様々な洞穴があって、大きなものには夫々に名称が付けられているようである。


この「鬼ケ城」を中心として、地元有志会(熊野市観光協会)において、毎年8月17日に「熊野大花火大会」が開催されていることは全国的に知られている。 
各種スターマイン、二尺・三尺玉、海上自爆水中花火、海上自爆三尺玉、ナイアガラと見どころはつきない。
お目当ての見物(みもの)はなんといっても鬼ケ城仕掛けで、岩場や洞窟に花火を直置きするという荒技で、信じられないほどのド迫力の地上大爆発の連続が数分も続くという。是非、一度は拝見したいものだ。


鬼ケ城のトンネルを抜けると、これまた名物の「獅子岩」が在る。
鬼ケ城ほどの大迫力とスペクタクルは無いものの、「日本のスフィンクス」(・・?)とも呼ばれる獅子岩は、高さ25m、周囲約210mの岩塊で、地盤の隆起と波の浸食によって造形されたもの。 

あたかも獅子が太平洋に向かって吠えているかのような姿からこの名が付いた。 学術的価値も高いものだと言われている。

次回、熊野と熊野地方・・?

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日本周遊紀行(40)熊野 「熊野地方」



熊野市と熊野地方・・、


地域は既に熊野、正しくは「熊野市」に入っていた。
熊野というと、普通、熊野地方のことで紀州・和歌山の地域と錯覚しそうであるが、熊野市はれっきとした三重県である。
三重県は通常は名古屋圏、中京地区で東海地方(東海三県:愛知、三重、岐阜)とも言われるが、こと熊野市に到っては県の最南部、紀伊半島に深く入り込んで和歌山県と接している。 
従って、市は歴史、風俗、習慣とも紀州圏・熊野地方の属していると見るべきだろう。

尤もで、市の中心市街地は古くから木本地区で、この地は奥熊野代官所が置かれ、熊野地方一帯の行政の中心であった。 
それゆえ明治の廃藩置県で三重県に編入された時には支庁がおかれ、現在も三重県の熊野地方を管轄する官公庁が多く存在するのである。



クマノ(熊野)とは一体如何なる意味をもつのか・・?、


一般に「熊野」とは、熊野三山が鎮座する所謂、熊野地方をいうが、嘗ての紀伊国・牟婁(むろ)郡をいい、紀伊半島南部の地域を指していたとする。 
従って紀州・和歌山県というイメージがどうしても強い。
紀伊国・牟婁郡は古くは熊野国として存在していたが、だが、明治になって熊野川を境に二つの県に分けられ、熊野川以西は現在の和歌山県に、熊野川以東は現在の三重県に属することになったという、政策的事実もあった。

さて、「熊野」という地名が何を意味しているのか、語源としては定かでないが、「クマ」、「カミ」で「神のいます所」や「クマ」は「こもる」で「神が隠る所」の意、又、「クマ」は「こもる」で「死者の霊魂が隠る所」の意・・と諸説はある。

いずれにしても「熊野」とは開けた明るいイメージはなく、木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地という意味合いが強い。 
実際、熊野3600峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の厳しい所が多く、人が農耕をして暮らすにも不便な場所であった。

飛鳥以前には、それこそ熊野は「神のいます所」、「神が隠る所」で神域であった。


熊野の地名が初めて登場する文献「日本書紀」では、熊野は伊邪那美神(イザナミ)の葬られた土地として登場する、その墓所は市街隣地「花の窟」というところであった。(次回詳細)

奈良期になって仏教が倭国に入ってきても大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界として意識していたともいう。 
従って、人々は熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、この事が高じて後に死者の国である「浄土」と結びつけられ、浄土信仰が盛んになったとされている。

後の神仏習合という新しい思想では、熊野三山である「本宮」は阿弥陀如来の西方極楽浄土、「新宮」は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、「那智」は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。

熊野が広く世に知られるようになったのは平安期以降で、都・宮中での上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われ、熊野信仰に熱が入り、熊野は浄土信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立した。
その後、貴族が止むようになると武士や庶民による熊野詣が盛んになり、参詣道も整備されて遂には「蟻の熊野詣」とも称されるようになった。

現代においても、それらの信仰は曲折があったにせよ世代に引き継がれ、又、これら諸々の施設である遺跡や遺産は、一般無信仰の人々にとっても好奇の対象とされ観光化されてていって、相変わらず多くの人を参集しているのである。

そして、遂には世界遺産:「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されるまでに到った。

世界遺産には神仏習合「熊野」以外にも紀伊山地では修験道の「吉野」、密教の「高野山」と三つの異なる宗教の山岳霊場が選ばれ、それら三大霊場を結ぶ参詣道である「熊野参詣道」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」などが選定されている。

或る著名人が、この紀伊山地の世界遺産の重要性、特徴的で、尚且つ異色なのを次のように挙げている。

『 それは三つの霊場がそれぞれ「異なる宗教」の霊場であるという点です。修験道の吉野、神仏習合の熊野、真言密教の高野山。異なる三つの宗教の霊場が紀伊山地にある。それぞれが在るだけでなく熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。このことはとても大切なことだと思います。 神と仏が敵対するのではなく、融合し、共存している。異なる宗教が敵対せずに共生している。この共生の文化こそが世界に誇るべき日本の文化遺産なのです 』・・と。

 

尚、熊野地方の世界遺産については、別項に記載してます。

世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』

http://orimasa2008.blog44.fc2.com/blog-date-20080125.html 

次回は熊野・「花の窟神社」
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日本周遊紀行(40)熊野 「花の窟神社」



写真:巌魁が御神体の「花の窟神社」



伊弉冊尊(イザナミノミコト)の御陵とされている「花の窟」・・、


獅子岩から1kmほどの先の右手に巨岩が林の間から見え隠れしている。 
こちらが「花の窟」と言われる、その名も「花の窟神社」(はなのいわや)である。

この巨岩塊が花の窟神社の御神体であり、高さ70mに及ぶ岩壁が聳えている。
小さな鳥居の脇には、似合わぬ程の大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」と記されていて、その奥には社のような建物のようだが、実は社殿では無くチョット似合わぬが神門のようなものであろう。

この神社は、本来の社殿がなく拝殿のみであり、まさに「自然崇拝、自然神信仰」の神社なのである。 地元の人々はこの神社に日本中の八百神(ヤオヨロズノカミ)が、遊びに来られると信じているようである。

主祭神は「イザナミの命」であるが、ここは、イザナミの墓がある場所ともされている。 
全国に、イザナミ神を祭る神社は幾多もあるが、「墓」が存在している場所は唯一ここだけであるという。 
この岩盤の向こうは、黄泉の国へ通じる場所とも云い伝えられている。 
実際には、縄文期頃の古くからの漁民の葬送地、祭祀の遺跡ともいわれ、花の窟の名称は太古から花をもって祀る土俗・風習があったからと言われる。

花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火の神・加具土命(カグツチノミコト)を産み、この地で亡くなったとされ、後に葬られた御陵であるといわれる。
この花の窟には無数の洞窟があり、又、巌の表面には窪みが数箇所ある。 
これらは死者の霊が一旦とどまる場所、他界への入り口という信仰があって、昔は近辺に水葬の伝承もあることから、水葬の基点として神聖視されたとの説がある。

又、岩の窪みが女陰の形に想定されることから母神である伊弉冊尊を祀り信仰していたとする説もある。 
至近の新宮市に鎮座する神倉神社の御神体である「ゴトビキ岩」を陽石(父神)として、花の窟と対をなすとの見方もあるようだ。

神社は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続き、信仰は厚いという。

境内の案内板に・・、

『 神代の昔より花を供えて祭るので花の窟という。 窟の頂上より掛け渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり 』

と記されている。

「日本書紀」に記されている事が今に引き継がれ、2月2日と10月2日には神々に舞を奉納し、地元・有馬の氏子や人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。 

綱は藁縄7本を束ねて花をつけた3つの縄旗で、日本一長いといわれる約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木に渡すという。
この神事は太古の昔から行われていて、「三重県無形文化財指定」されている。 

「花の岩屋」の石碑は、紀州藩・徳川宗直(ムネタダ)が1723(享保8)年に寄進したものと言われ、国学者・本居宣長も

『 木の国や 花のいは屋に 引く縄の 長くたえせる 里の神わさ 』

の歌を詠んでいる。

この地は熊野三山参詣の本宮社と速玉社(新宮社)の分岐点に当たり、いわゆる熊野古道として残されている。 
伊勢道より遥々やって来た参詣人達は、先ずここ「花の窟」をお参りして、其々、本宮大社、又は、速玉大社(新宮大社)に向かうのである。

さて、次に向かおう・・、

沿岸地域に迫る重畳たる紀の国、木の国、鬼の国の山塊も、鬼ヶ城、獅子岩あたりで終わりをつげ、今度は対照的に明るく開けた、そして、ほぼ直線で平坦な熊野灘の海岸を行く。 
実に開放感たっぷりで気分も爽快である。 
すぐ右手に紀勢本線のローカル列車がのんびりと走っている。左は防風林と思しき青松群が平行していて、時折、紺碧の海原がキラリと光る。

ここは御浜町(みはま)の「七里御浜・ひちりみはま」で、町名が先か地名が先かは定かでないが、この浜は特徴ある浜様を呈しているようである。

道の駅「パーク七里御浜」もあったが、その向い側の浜辺の休憩所・阿田和PAに車を止めて海辺をのぞいて見た。 
遥かなる水平線の青松と白砂の海岸(・・?)が延々と続いている。 
浪打際をよく見ると、白砂と違って玉砂利が敷きつめられた砂礫の海岸であった。 
これが、ゆるやかに円弧を描きながら延々と続いている。そんな風景を見るだけで、気分が晴れ、大らかになれるが気分がする。

気が付くと、小波が打ち寄せるときもそうだが、返す波の時に小石の転がす音が、「シャラシャラ」と何とも心地良い音がよく響いてくるのである。 
これらの玉砂利は「御浜小石」と呼ばれ、黒色や青色、オレンジ色などカラフルで、色の模様や形も多彩なためアクセサリーとしても人気を呼んでいという。 

そういえばこの地方は碁盤の黒の碁石である「那智黒石」の産地でもあった。 

半島を流れる急流河川の熊野川が途中で岩盤や地質帯を渓谷が削り、砂礫となって御影石やカラフルな縞模様の石などになる。玉砂利の海浜では日本一長いとも言われる。
序でながら、この玉砂利は素足で歩くと健康に良いといい、昨今の健康ブームでこの浜を素足で歩く人が増えているという。

「花の窟」付近からは熊野本宮へ到る道が分岐している、今のR311号線に沿ってである。
神木から阪本の間には横垣峠道、そして風伝トンネル付近は風伝峠道と、いずれも古来の熊野古道の雰囲気が残っているという。 

尚、R311は熊野川・瀞峡、本宮社から大峯山、吉野山と龍神から高野山と近畿主要地を縦断する東側の入口にも当たる。又、本宮社より熊野街道・中辺路を経て、西海岸の田辺に至る。 
速玉道は御浜古道がR42・御浜海道に沿って保存されている。


紀勢本線の「鵜殿」の駅前を過ぎ町内を通り越すと、視界を左右に振る程の広大な川幅を有する熊野川が、水の動きもユッタリとして流れ動いている。 
川岸を走って熊野大橋にかかる頃には、向う岸にこんもりした森が見渡せる。
既に新宮市であり森は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」である。

地域は既に「紀州・和歌山県」に入っていた。


熊野三山は、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(はやたまたいしゃ)、熊野那智大社(なちたいしゃ)の三つの神社の総称で、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

尚、世界遺産に関した「熊野三山」界隈は別項・に記載してあります

世界遺産  『紀伊山地の霊場と参詣道』
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次回は新宮・神倉神社    PartVへ

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