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日本周遊紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」



明治期、日露戦争を勝利に導いた「秋山兄弟」・・、

小生が数年前、病床において(大腸ガン)読破した司馬遼太郎の大著に「坂の上の雲」がある。
明治期の日露戦争の名将・名参謀である秋山兄弟と歌人・正岡子規を軸に、四国・松山出身の三人の男達の友情と国家存亡の一大叙事詩である。 

日露戦争のおいてロシアの名高いコサック騎兵を破った秋山好古(あきやま・よしふる)、日本海海戦の参謀秋山真之(あきやま・さねゆき)兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、明治の群像を描いている。
この陸海軍に分かれた二人の兄弟が、まだ当時東洋の一小国であった日本を、亡国の悲運から救ったと言っても過言ではない。
弟の真之と子規とは、東京の下宿の一室で起居を共にした程の親交であった。


「秋山兄弟」は、松山藩士の子として松山市歩行町2丁目に生まれている・・、

兄・好古は日露戦争の「黒溝台の戦い」では30kmにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。 
コサック騎馬隊は単銃なのに対し、好古の申し出によって日本陸軍で初めて機関砲(騎兵砲)が配備され、この戦いで大活躍をした。 

好古は、身だしなみには全く無頓着で、下着もろくに着替えず、天気の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。
しかし、時計の様な几帳面な面もあり、晩年、中学校の校長時代には毎日、馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。
後の陸軍大将、勲一等章

弟・真之は正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、俳句や和歌なども学び、文学的才能にも秀でていたという。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節に、『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』や、Z旗(国際信号旗の一つ)の信号文の『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』は参謀・真之の有名な一節であり、子規より得た文学的才能が開花した名文として歴史に残った。

兄同様、身なりなどを気にしない性格であったが、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(連合艦隊解散の訓示)の草稿を秋山が作成し、この文章に感動した時の米大統領ルーズベルトは、全文英訳させて米国海軍に頒布したともいわれる。
東郷平八郎は、真之を「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価している。 海軍中将。


日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から、今年(2005年)は100周年に当たる、奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であり、司令長官・東郷平八郎、参謀・秋山真之が乗った戦艦「三笠」の等身大のレプリカが神奈川県・横須賀港の三笠公園に停泊している。(横須賀の項で記述あり)

松山市は、「日露戦争100周年」、「21世紀の新しい町造り」として、司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」をモチーフした「坂の上の雲・まちづくりチーム」を発足させたという。
正岡子規と秋山兄弟の三人の生き方を通して訴えている「夢」や「理想」や「目標」を持って、前向きに行動していく素晴らしさを市民みんなで共有し、「松山らしさ」を演出し、その情報を全国に発信にすることにしている。

内容は、「坂の上の雲・記念館」(建築構想)を中核施設として、松山全域を一つのフィールドミュージアムとし、主人公にまつわる事物を探索・発見・収集・再現しようととするものという。
又、、NHKは平成19年度(2007年度)以降の放送に向け、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」を原作として、21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」の制作を開始している。 放送は、平成21年度 (2009年度)に、総合テレビやハイビジョンなどで1回・75分の枠で、20回程度を予定するらしい。
 


道後を辞して、一旦、松山市内へ向かう。

市街の中心に緑豊かなお椀を伏せたような小高い丘がある、丘といっても標高130m程度であるから小山といったほうがよい、山の名前は「勝山」というらしい。 
その山頂に、華麗な天守閣が見えている、松山城である。 
松山という地名は、秀吉の頃(戦国期)、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の一人・加藤嘉明が拝領し、お城と城下町を築いたときに周辺地域の赤松の見事さに感嘆し、城下周辺一帯を「松山」と名付けたという。
正岡子規や夏目漱石が居た頃は、町並みと松並とが調和して美しかったに違いないが、今の街にその面影は無い、緑の松山は、勝山だけになってしまった感もある。 

子規がこの故郷の町に帰ったとき城山に登って・・、


『 春や昔 十五万石の 城下かな 』  

と、のびやかに詠っている。

この山上、中腹、麓からなる城構えを平山城と呼び、姫路城、和歌山城とともに松山城は日本三大連立式平山城と称され、我が国最後の完全な城郭建築といわれる。
松山城の創設者は加藤嘉明である。 

初め伊予・松前六万石の城主であったが、「文禄・慶長の役」(豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮を侵略した戦争)等の活躍により10万石に加増された。 
1600年の「関が原の戦い」の戦功により伊予半国20万石に加増された嘉明は、初めて「松山」と雅称し、松山城の築城にかかる。

堅固にして壮麗な連立式五層天守の松山城がほぼ完成したのは、26年を過ぎた後のことであった。 
ところが嘉明はその完成を喜ぶ暇もなく、同年、奥羽の要の会津若松(福島県)40万石に転封されている。 
永い歳月を費やした一大牙城を、いくら倍の会津40万石への栄転にしても、完成直前(9割以上)の城を後にしなければならなかった。
加藤嘉明・主従の心境はいかばかりであったろうか・・ ?。 

入れ替わりに名将・蒲生氏郷の孫・忠知が入城している。 
蒲生氏は、奥州藤原氏の系統に属する鎌倉時代からの名門であり、奇しくも戦国期の雄・蒲生氏郷自身は以前、30数年間会津藩主であった。
これも因縁であろうか・・?。

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日本周遊紀行(79)菊間 「菊間瓦」



菊間の町は、いぶし銀に輝いく美しい「甍の波」が冴える・・、

可愛らしい「坊ちゃん列車」を横目に見ながら、瀬戸内の北条方面を目指す。 国道196号を北上すると、「北条」の眩しいほどの瀬戸内海へ出る。
久しぶりの内海の海で、風も無く、いつものように海は穏やかであった。

西方・紺碧の海上にコンモリとした緑一色の島が浮かぶ、「鹿島」である、当地では別名「伊予の江の島」と呼ばれるらしい。
小生、地元の湘南・江の島を思い出すが、やはりこの地も四季折々の景観を呈する観光名所になっていて、島へ渡るには渡し舟で行くらしい。 
首都圏の二本も道路(江ノ島大橋)が架かる(車道、歩道の2本)湘南・江ノ島と違って、何とも優雅で結構である。
北条の先に大浦という港があって、ここから波妻鼻(岬)が出ばっている。 
この付け根から見る海岸線が実に綺麗で、盛夏には海水浴客で一杯になることだろう。


この先、R196通称、今治街道は美しい海岸線をしばらく走る。
交通量は結構多いので、窓の外の景色に見とれて事故など起こさぬようにと、自分に言い聞かせて車を滑らせる。

菊間町の民家の瓦が、いぶし銀に輝いていて美しい「甍の波」を見せている。 
菊間は、全国に誇る菊間瓦の産地であり、銀色に輝くことから別名「いぶし瓦」とも呼ばれている。
700年の歴史を誇ると言われており一般の屋根瓦の他、独特の形状をした鬼瓦や飾り瓦なども生産されており、各地の名高い神社仏閣やお城の屋根などで見ることができるという。
道後温泉本館や松山城、そして明治17年皇居造営に際しては菊間瓦が特選の栄誉を賜っているという。

昭和になって生産工程や燃料などが近代化され、瓦職人の数も最盛期に比べると少なくなっていが、こうした中、昔ながらの工法を続ける鬼師は伝統工芸として世襲家系に今なお続いており、各地の名高い神社仏閣にその名をと留めている。
町の施設としては珍しい「かわら館」(瓦のふるさと公園内)があり、菊間瓦の歴史や伝統的な製造工程の模型をはじめ、様々な瓦作品が展示されている。瓦の製作体験実習もできるという。


菊間の町並みを過ぎ、太陽石油の大きな石油タンク群をを左に見る。 
菊間から大西町、予讃線が相変わらず山側を、ほぼ並行して走っているが、その丘陵というか山肌は濃い緑におおわれている。
どうやら蜜柑の木であろう・・、関東より以西は、みかんの木などは珍しくないが、その中でも愛媛県は全国一のみかんの産地であり、瀬戸内の温暖な陽光を浴びた、菊間、大西町は古くからのみかん農家が多いようである。

蜜柑は愛媛、和歌山、静岡が県別収穫量のベスト3と言われる。
その歴史は比較的新しく、愛媛の場合200年ほど前の江戸末期、南伊予の吉田町辺りが発祥といわれる。 
元々は中国浙江省の温州地方が原産地で、始め九州に伝わり、その後和歌山・有田地方で栽培が盛んになったといわれるが、同時期、伊予地方でも栽培されたという。

通常の小粒の愛媛みかんを「温州みかん」とブランドとして称しているが、愛媛県下ではその他にも多様な品種が生産されている。
その代表的なのが大実の伊予柑であるが、その他にも主要なものでネープル、八朔、ポンカンなど20数種に及んでいるという。 

この辺りの越智今治地域はネープル、八朔が多いようであるが、菊間、大西町の蜜柑の種類は何であろうか・・?。

次回は、波方の「村上水軍」

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日本周遊紀行(80)今治 「村上水軍」



来島海峡は海賊大将・村上水軍の発祥地・・、

大西町から波方町の半島付け根を横断して「今治」に入り、程なく今治・尾道ルートと言われる「瀬戸内しまなみ海道」へ通ずる西瀬戸道と交差する。
近くに今治I・Cがあり、中国・山陽地方の尾道へ抜けることが出来る。
小生は四国一周をするつもりなので、当然、このまま国道196を行くことになる。 

この時、偶然にも「大三島」において山火事が発生している・・、とカーラジオが報じていた。
大三島は、この瀬戸内しまなみ海道の中間にあたり、大小の島が連なる内の最大の島である。

「瀬戸内しまなみ海道」(本四連絡道路・今治―尾道ルート、西瀬戸自動車道)は、愛媛・今治市と広島・尾道市間を来島海峡大橋や多々羅大橋など十本の橋で結ぶ、文字通りの「海の街道」(全長約六十キロ)である。
すべての橋が徒歩や自転車で渡れるといい、珍しいのは四国側玄関の今治市にある世界初の三連つり橋の来島海峡大橋(愛称・くるくる橋ともいうらしい)といわれる。 


急流で名高い来島海峡は、「海の大名」といわれ、室町から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した「村上水軍」ゆかりの地でもある。

瀬戸内海は太古から、九州はむろん大陸や朝鮮半島から畿内に向けてのルートとして、重要な交通の要所であった。 
然るに、この内海を堰堤のように大島、伯方・大三島、生口・因島などが阻んでいる。

海流や船舶はこれら島々の間を縫うように流れるのであるが、特に、南端の来島海峡は瀬戸内海の主要航路のようで、大小の主な船舶はこの航路を通過するようになる。
この今治と大島(吉海町)の間にある来島海峡は、「内海では一に来島、二に鳴門、三にくだって馬関瀬戸」と詠われたように、鳴門海峡、関門海峡とともに日本三大急潮として知られる。
潮流が10ノット(時速18.52キロ、1時間に1海里〔1852メートル〕)にもなる所もあり、特に動力の無い時代には、船を操作するのに特殊な技術が必要であった。 

この辺りの海難の地が、往時、海賊を発生させる要因になったのかみしれない、

「海賊」とは、陸の山賊と同じで、武装した略奪者集団というものであり、「海賊」という言葉のイメージは恐らく昔も今もこれと変わることはない。 
ただ、史上遡って室町から戦国時代になると「海賊」は単なる盗人的蔑称でなくなり、「海賊大将」などと誇らしげに自称する軍事勢力であり、それらを統率する首領も現れてくる。 
海賊は、軍事力を備えた戦術を行使する「水軍」と呼ばれるようになったのである。

60年程続いた南北朝の時代に、南朝の後醍醐天皇の懐良親王(かねよししんのう・後醍醐天皇の第11皇子)を助けたとされる「村上義弘」が頭角を現し、村上水軍の基盤を確立した。

一時は、瀬戸内全域を制する海賊大名であったが、織田水軍(和歌山・九鬼)と2度戦い、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船の前に大敗し、次第に勢力を弱めていった。 
更に豊臣秀吉の時代になり、海上の権力を警戒した秀吉によって海賊禁止令が出され、次第に衰退してゆくが、中世の歴史を語るのに村上水軍を外して語れないともいわれ、晩年、朝廷より義弘公は正五位を賜っている。


来島海峡大橋のすぐ西側に、周囲1kmほどの小島が「来島」である。(来島の南に実際に「小島」という島もある) 往時、来島・村上水軍がここに根拠をもち、来島城の城塞が全島をめぐらしていたという。しかし、水軍の将家・来島家も、徳川幕府の成立にともない豊後(大分県)に移封され、その後再び今治に戻ることはなかったという。 

こんな、村上水軍の古跡の地に、今でも、その精神、技術が継承されているのだろうか・・?、大西町、波方町(現今治市)には、造船で有名な来島ドッグがある。 
戦前は、軍艦などを建造していたが、現在は日本でも有数の産業用の造船所として伊予地方の経済を支えている。

戦後、経営難に陥った「来島ドック」の再建を引き受けたのが、伊予地方出身(松前町)の坪内寿夫であることは有名な話である。
社長に就任いらい伊予商人独特の月販方式(月賦販売、今で言うクレジットは伊予今治が発祥地といわれる)などをテコに急成長し、その後も佐世保重工業など造船会社の再建を相次ぎ引き受け、巨大な造船グループを築いたことで、業界では造船の神様、四国の大将とも称される。

次回も、「今治」   PartVへ


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