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写真で巡る日本一周(西日本編W 第21日目〜第27日目)
(四行一口メモは本文より抜粋)
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日本周遊紀行:詳細目次
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【第21日目】  知覧⇒鹿児島⇒隼人⇒国分⇒都城⇒宮崎
知覧特攻記念館  若き隊員達がこの部屋で「遺書・文言」をしたため、内容は強烈に胸を打つものがあった。当時は手紙一通にしても軍の検閲が厳しく全くの本心は書き難い面があったが、決して嘘は無い・ 知覧重要伝統的建物保存地区 1602年江戸開府の頃、島津家久は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させた。 鹿児島中央駅前付近 界隈である加治屋町は、幕末から明治時代にかけて西郷隆盛、大久保利通をはじめ、大山巌、村田新八、東郷平八郎など有名な偉人たちを輩出した。今もその生誕の碑が残る。

鹿児島鶴丸城址 城は天守閣のない居城であ征韓論に破れて下野した西郷は、ここに「私学校」を設立した。薩摩王国の行政機関でもあり、軍事調練所、現在は西南戦争の弾痕が目立つ石垣と内堀が残る。

照国神社 社は島津斉彬を祭神とする神社である。薩摩藩主28代藩主斉彬は僅か7年であったが、西洋文明のや工業を興し、西郷や大久保らを育てた名君。境内には斉淋、久光、忠義3候の銅像が立つ 宮崎神宮 神武天皇を主祭神とし、地元では「神武さま」で親しまれている。神武天皇の孫で、筑紫(九州)を開拓した健磐龍命が創建したと伝えられており、かなり古い歴史を持つが造営時期・由緒は不明である。

【第22日目】   日向⇒延岡⇒北川⇒佐伯⇒津久見⇒大分⇒宇佐⇒苅田⇒小倉⇒下関
佐伯城門  大手前から城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「日本の道100選」に選定、城門は、三の丸御殿の正門として、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物であると・・。 宇佐神宮 祭神は応神天皇(八幡大神)、全国の神社のおよそ三分の一、実に3万社が八幡神社。関西では京都・岩清水八幡宮、関東では鎌倉・鶴岡八幡宮が有名、その大元締め宇佐神宮(八幡神宮) 宇佐神宮呉橋 寄藻川の川幅いっぱいに宮社風の建物が弧を描いて施してある、呉橋は宮人・勅使、天皇達のやんごとなき方々の専用通路である・・が、たかが小さな川に架かる橋としては豪奢な造りである。
関門海峡 地域的には大瀬戸、早鞆瀬戸(はやとものせと)とも言う。壇ノ浦とはこの海峡の一部をいい、勿論、通常「壇ノ浦」というと海戦の古戦場、源平の最後の合戦地として余りにも有名である

源義経像 壇ノ浦の合戦は数段上のプロの手口とも言う。関東武者に海戦を指揮しろといっても無理で、船頭衆が後ろへも漕げる逆櫓(さかろ)を進言すると義経が「馬鹿なこと言うでねえだ」と言ったのは有名

赤間神社 壇ノ浦に崩じた「安徳天皇」を赤間関の寺境内に葬った安徳天皇陵がある。神宮の水天門は朱塗りの竜宮造りで海峡からよく望見できる。 境内に壇ノ浦で亡くなった平氏一門を祀った「七盛塚」がある


【第23日目】   下関⇒豊浦⇒油谷⇒長門⇒萩⇒益田⇒浜田⇒仁摩⇒大田⇒湖陵
関門海峡 みもすそ公園に大砲が四門据ている。幕末の思想は「尊王攘夷」であり、事件は攘夷決行の期限であった1863年に藩が馬関海峡を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発する。 松下村塾 吉田家(松陰)の私塾である。松蔭門下の志士達が明治維新の革命を起こすが、彼等の中で幕末、先見思想をもち維新の先駆者であった「吉田松陰」については本文にて特に詳しく述べてある・・ 高杉晋作邸 幕末の風雲児と言われる彼は、安政4年(1857)に松下村塾に通い始めた。松陰からは「有識の士」として将来を嘱望されている。馬関海峡事変後、新しい軍隊の奇兵隊を創生したことは有名
浜田港  島根県唯一の国際貿易港として現在、5万トンクラスの大型船舶が利用できる港として整備中である。日本海側における北東アジア地域との交流促進と県西部の活性化に期待されていという 石見銀山跡 いつ、誰に発見されたのかを確実性はないというが、「銀山旧記」には「室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見たと・・ 多伎台場公園 国道海岸の高台の公園に異相な大砲が一門据えてある。ペリー来航の翌月に幕府は兵備を整え、海防をかためるよう各藩に指令を出した。応じて松江藩は要地に大砲を三門ずつ配備した。

【第24日目】   出雲⇒松江⇒美保関⇒米子⇒北条⇒鳥取⇒浜坂⇒香住⇒竹野⇒城崎
出雲大社 本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、昔は三十二丈(98メートル)もあったともされる。屋根の千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性で、伊勢神宮は天照大神で女性の神で切込みは水平である。 大国主神 出雲大社の本殿の祭神である。出雲は国造り、国譲り伝説の地であり、豊葦原瑞穂国の国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされる。 松江城 幾多の城を巡ってきたが、お城周りに、これだけ風雅な雰囲気を残しているところ見当たらない。古い町並み、屋敷跡、著名人の館が残り、更に、情緒と雰囲気を盛り上げている松江のシンボルである
美保神社 ここ美保関は美保湾、美保漁港が有り日本の鯛の三大産卵地の一つとさる。鯛と言えばエビス様に通じ、事代主命と言われる。社は事代主命と美保津姫祀っている事代主神は大国主命の息子である 鳥取砂丘 大河・・?「千代川」が太古以来土砂を流し続けた事と偏西風の影響による。 砂丘は千代川河口東西16km、奥行き2kmで、高さ50mから60mの丘を造り、沙漠の様相を呈しスロープも広大である。

餘部鉄橋 明治45年に開通、長さ310m、高さ41m、11基の橋脚、23連の鉄桁を持つその雄姿は「東洋一の名橋」と呼ばれる。新しいコンクリート橋が2007年春 工事着手、2010年 架替工事完了予定 している。


【第25日目】  城崎⇒豊岡⇒峰山⇒宮津⇒伊根⇒舞鶴⇒小浜⇒三方⇒敦賀⇒越前⇒三国⇒芦原
城崎温泉 温泉街は大谿川の流れに沿って木造建築の旅館が軒を連ね日本情緒を醸し出している。 “湯の里通り”のボンボリ灯りの下、浴衣姿のお嬢さん達が良く似合い、シャッターに快く応じてくれた。 天の橋立 樹齢数百年の古老の松が延びている。 「伊達の松島」、「安芸の宮島」と「丹後の天橋立」、共に日本三景は周知のとおりである。南西に突出する砂嘴(砂洲)は、全長約3キロ、幅40〜100m・・ 伊根の舟屋 湾内をじっくりと眺めるには遊覧船が良いとか・・、水産庁は未来の残す建造物として「漁業漁村百選」を発表し、この舟屋漁村は歴史的・文化的に価値の高い施設として選定した。
舞鶴引揚記念館 昭和20年から33年まで13年間にわたり、66万人余りの引揚者と1万6千柱の遺骨を迎え入れた引き揚げの町・舞鶴。小生の家族も満州引揚ということで、この中の一員になってる・・。

若狭神社 社の奥の神宮寺に「霊水の井戸」があり「お水送り」の行事を行う。この霊水は遠敷川の地下水脈を通って、奈良東大寺二月堂に達しているとされ、この地で「お水取り」の儀式は周知である

窓岩 越前岬は越前海岸で最も西に突き出した「く」の字の先端地点である。日本海の荒波が作り出した変化にとんだ奇岩・断崖である。夫婦岩、軍艦島、鉾島、亀島といった奇態な岩峰群が乱列する

【第26日目】   金沢⇒志賀⇒輪島⇒珠洲⇒内浦⇒能都⇒穴水⇒能登島⇒和倉温泉
東尋坊 実は、ここは自殺の名所でもある・。平成13年の統計によると、30人が投身自殺し、保護された人は62人にのぼるという・・。福井県小浜署の、あるベテラン刑事に忘れられない体験があったという・・・。 兼六園  岡山県の後楽園、水戸の偕楽園と日本三代名園の一つ、宏大)・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼ね備えた庭でその名が付いた。 園内には築山を巡って曲水や池、滝などが配されている 旧輪島駅 廃止された”のと鉄道“の旧駅舎。 「ぷらっと訪夢」の中の半分は観光案内所になっていて、輪島の有名な祭り「きりこ祭り」のきりこが飾られていて、もう半分はいまでもJRの旅行センターとなっている
白米・千枚田 棚田は実際に1000枚の田が存在するという・・。一つ一つが小さい田代だが人々の生に対する執着が、このような労作を造りだしたのであろう・・。先人達の弛まぬ労苦を知るべきである・・。 禄剛崎灯台 能登半島の最北端で外浦と内浦との接点にあたる。 “海から昇る朝日”と“海へ沈む夕日”が同地点で眺められろ貴重な場所である。又、晴れた日は、立山連峰から佐渡島が遠望できまる 中能登農道橋(ツインブリッジ) 能登島は七尾湾の中、三方の海によって隔てている。その西方、長浦の三ヶ口瀬戸に架かる橋を「農道橋」というが、何の何の、最近開通した実に立派な吊橋である。

第27日・最終日】   七尾⇒氷見⇒富山⇒魚津⇒黒部⇒朝日⇒糸魚川⇒白馬
和倉温泉 温泉は沖合60メートルの海中から1200年も前に湧き出したという・。湯気立つ海で“白鷺”が身を癒しているのを見て、「湯の湧き出づる浦」、湯涌浦が発見された。加賀藩)の命で「和倉村」と名を改めている 氷見 3000m級の険しい立山連峰とそれに連なる山並みからの雪解け水や雨水が森林を通って河川に流れ込む。河川は、森林の有機質がプランクトンを培養し、富山湾は絶好の漁場環境なのである。

富山城 本来は五層の大天守閣であった、慶長5年の関ヶ原の功により前田利長が城を修復、藩が成立する。以前は戦国期・織田信長によってアルプス越えで有名な佐々成政を富山54万石封じ築城している。

親不知 名称の由来は断崖と波が“親は子を、子は親を省みる事ができない”程に険しい道である事から、又、伝承は、子供が波にさらわれてしまい、以後さらわれた浦を「親不知」と呼んだと・・。 親不知「如砥如矢」 明治16年、地元有志が絶壁を削って、今立っているこの道(旧道)ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したもので、「砥石のように滑らかで、矢のように早く通れる」という意味だとか・・ 白馬ジャンプ台 1998年(平成10年)2月・長野オリンピックの感動的名場面を想う・・。ノーマルヒル・船木が銀メダル、ラージヒル・金メダルは船木、銅メダルが原田、ジャンプ団体・金メダルは日本チームであった。
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