「函館」の街は、函館山はとつながる陸繋島(砂州によって陸地とつながった島、潮岬・函館山など)である函館半島から、七重浜方面・亀田平野方面・横津岳山麓方面・湯の川方面に展開している。
北海道の表玄関として、まだ北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃から漁業(港湾)、各地との貿易、海運によって発達した町で、江戸期には「高田屋嘉兵衛「が拠点とし、蝦夷交易の場として栄えた。
中世室町期の15世紀、津軽半島に根拠をもっていた豪族・安東氏が南部氏に敗れ、安東政季に従って来た重臣・河野政通らが蝦夷地に渡来し、当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたのが始まりとされてる。
「宇須岸の河野館」といわれ、現在の亀田地区・市立函館病院あたりで辺りで、この「河野館」を遠くから見ると「箱」に似ていたところから、「箱館」と呼ばれるようになり、地名発祥の基となったという。
16世紀初、アイヌを見張る前線基地であったが、その「アイヌの反攻」で一族が敗れたため、和人は亀田地区に移り、その後、箱館は以後100余年にわたって歴史の舞台から沈黙していた。
国内は、開国か鎖国かでゆれ動き、次の年の1854年ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結び、下田・函館の二港を開いてアメリカ船に食料や燃料を与える約束をする。
これにより箱館は近代日本初の国際貿易港として世界に開かれ、この条約は日本初の不平等条約でもあったが、約300年も続いた幕府の鎖国政策は終わり、北方警備を目的とする箱館奉行所が置かれた。
開港の結果として、日本の他の地域に比べて、外国の影響を早くから受けることになり、函館は外国人の目に映った幕末・明治初期における日本の地方都市の一典型として、文筆やスケッチ、写真で数多くの記録が残ることになった。
彼が後年に編んだ「日本遠征記」は、相当の紙幅を費やして、それまで多くを語られることのなかった、日本中でも僻遠の地・蝦夷にあるこの港のことを、かなり具体的に描写している。
ペリーは、シーボルト著の「日本」やゴロウニン(ロシアの海軍士官、幕府は蝦夷地を荒らしたロシアへの報復として、海軍少佐ゴロウニンを拿捕した、その時の記録が日本幽囚記である)の「日本幽囚記」なども熟読していたという。
又、英国から日本付近の海図を入手していて、米国の捕鯨船の停泊地としての地理的優位性として箱館が絶好の位置にあることを、あらかじめ了解していたようでもある。
その後、西側から回り込むにつれてその島が実は細長い地峡をもって背後の陸地と繋がっている様を実際に目の当たりにした時、ペリーと彼に随った乗員たちをある種の興奮が襲ったという。
領域は半島になっており、地中海に面し、陸地側はスペインに接している)との類似が躊躇なく語られているのは、そうした最初の感動が多いにあずかったという。
特に函館西部地区の元町周辺は開港当時から栄えた所で、各国の様式を備えた教会・旧領事館・石畳の坂道と、これらが醸し出す風情はエキゾチックなムードを漂わせている。
また、明治維新における函館戦争の歴史の跡々、北洋漁業の策源地(前線の部隊に必要な物資を供給する後方基地)にみる伝統などが、それら外国文化の名残と有機的に交錯され函館独特の街が形造られているのである。
この砂洲で出来上がった亀田半島の西海岸に「函館駅」があり、歌にも唄われた「函館本線」が、道内一の400kmにもおよぶ遠距離が小樽駅、札幌駅を経て「旭川」まで延びているのである。
「五稜郭」、日本では珍しい西洋式星形の城郭である・・、
「五稜郭」は、稜堡(りょうほ:城壁・要塞の突角部、16〜18世紀、ヨーロッパで大砲による攻防に備えて発達、城全体は星形をなし、函館の五稜郭はその一種)と呼ばれる五つの突角を配し文字通り、星形の城郭である。
設計は幕府の蘭学者・武田斐三郎で、7年の歳月をかけ1864年にヨーロッパの城郭都市をモデルに竣工した日本で最初の西洋式城郭である。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに目的が国家の威信に取って変わり、函館開港時に箱館奉行所が置かれている。
五稜郭は、慶応4(1868)年4月に大政奉還を経て明治政府へ引き継がれるまで、蝦夷地の中心として重要な役割を果たし。
だが、同年10月、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍により占拠され、「箱館戦争」の舞台となった。
後には陸軍省の管轄下に置かれ、陸軍の練兵場となり、勿論、当時は市民が立ち入ることはできなかった。
現在、公園として一般に開放されるようになったのは、大正2(1913)年以降のことである。
昨今、五稜郭築城百年を記念して展望タワーが建造され、高さは60mの展望台から五稜郭の美しい星型を見ることができる。 周囲は壕を巡らし、春には堀端に巡らされた桜の美しい名所でもある。
戊辰戦争の最後の拠点となった五稜郭・・、
「五稜郭」は、戊辰戦争の最後の戦いの地として、大方は周知である。
慶応4(1868)年1月に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に始った戊辰戦争は明治2(1869)年5月の「箱館戦争」の終結をもって最終的に終了する。
その最後の戦い箱館戦争は、この道南の各地を戦場に巻き込んでいった。
慶応4年8月、新政府の徳川家に対する処遇に不満を持つ旧幕府海軍副総裁・「榎本武揚」率いる艦隊が、東北諸藩救援、旧幕臣による蝦夷地開拓を目指し品川沖から脱走してきた。
また、旧幕府歩兵奉行・「大鳥圭介」率いる陸軍も江戸を脱走し東北へと向った。
圭介率いる隊と「土方歳三」率いる隊の二手に分かれ箱館を目指し、両隊は五稜郭を占拠し、軍艦、回天・蟠龍が箱館港に入港し、事実上箱館と五稜郭は旧幕府脱走軍の占領下となった。
その後、松前・福山城や厚沢の館城を制圧、江差沖での開陽丸の座礁等のアクシデントもあるが、旧幕府脱走軍は道南・蝦夷地を占領し、蝦夷地領有の独立宣言をする。
目的は新政府からの独立ではなく、名目上は政府下での徳川家による蝦夷地開拓だった。
旧幕軍はその後、開陽丸などを失ったため、宮古湾に停留する政府軍の軍艦・「鉄甲」(宮古の項で詳細後述)などの奪還の奇襲作戦を挙行するが、作戦は失敗する。
これより以降、旧幕軍の劣勢、即ち、新政府軍の攻勢が始まるのである。
函館戦争・・、
新政府軍は4500名を以って青森港を出航、乙部(現、渡島半島乙部町)に上陸し、各地を転戦、奪還、占領している、このため旧幕府脱走軍は箱館周辺を残すのみとなった。
新政府軍は有川(現上磯町)付近に滞陣し、青森からの補給を待ち箱館総攻撃の準備を整え、遂に1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。
有川を出発した陸軍は七重浜・桔梗・四稜郭に向い、海軍は甲鉄・春日等が弁天岬台場沖、七重浜沖、大森浜沖から陸軍を援護する。
さらに軍艦、豊安・飛龍に乗り込んだ奇襲部隊は箱館山裏手から市街を攻撃する。
たまらず箱館市街は新政府軍に制圧され、旧幕府軍は五稜郭・弁天岬台場・千代ケ岡陣屋を残すのみとなった。
かつて、京都警備を行った会津藩と薩摩藩を窓口に、降伏勧告交渉がはじまったが、榎本は降伏拒否の意志を伝える。
しかし、弁天岬台場が降伏し、千代ケ岡陣屋が制圧され、ついに降伏を決意する。
明治3(1870)年4月、「五稜郭」は明け渡され、戊辰戦争は各地を戦火に巻き込みながら箱館を最後に終結した。
北海道では箱館や松前などが大きな被害を受け、その復興には多くの時間と費用がかかったという。
新撰組の土方歳三、奮戦ス・・!!、
新撰組副隊長の土方歳三が戦死したとされる場所は、現在の函館駅近くの若松町辺りとされている。 敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『 我この柵にありて、退く者を斬る・・!』と発したという。
歳三は、一本木関門を守備し、七重浜より攻めくる新政府軍に応戦、馬上で指揮を執っていたが、その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
函館戦争の旧幕府軍・榎本軍の幹部の中で、自ら死地前線に赴き戦死したのは「土方歳三」ただ一人であったという。
戊辰戦争も終盤の慶応4年8月、官軍が「会津」へ殺到、一か月に及ぶ籠城戦となった。
会津戦争では、歳三は母成峠の戦いに敗戦し、籠城に遅れた土方は開陽丸で北上してきた榎本武揚と共に仙台藩の青葉城に登城、列藩同盟の軍議に参加する。
この席上で土方歳三は、榎本に列藩同盟軍の総督に推薦されている。
この時土方は・・、
『
元より、死を覚悟の上ですので、各藩のご依頼は辞しませんが、三軍を指揮するには、軍令を厳としなければなりません。命令に背くものは斬らねばなりません。全将兵の生殺与奪の権を与えてくださるなら、お受けいたします・・』ときっぱり答えている。
土方は、120人前後となった新選組と共に、榎本艦隊で仙台から蝦夷地へと向かった。
約2500名の脱走軍は函館城(五稜郭)に無血入城し、12月には蝦夷地平定を完了し、「
蝦夷共和国政府」を樹立した。
土方は大鳥圭介に次ぐ陸軍No.2の陸軍奉行並に選出された。
新撰組の京都時代は、短気な鬼の副長として知られ恐れられた土方であるが、この頃は人が変わったように温厚な人柄となっていたという。
土方は、現在の森町・鷲ノ木へ上陸した後、東海岸沿いの砂原、鹿部、南茅部から道道の83号線づたいに函館を目指し五稜郭に入ったいる。
その後の戦歴は函館から、木古内、知内、福島から松前にいたり、松前城を落し、江差から熊石まで渡島半島の南端海岸線を巡っている。
土方は、新政府軍が函館総攻撃を開始する頃、敗色濃厚となっても新選組や前線兵士を救うため、わずか80人を従え騎馬で出陣している。
元より死を覚悟しての陣頭であった。
降伏戦死の後、土方の遺体は僚友・安富らにより五稜郭に運ばれ、埋葬されたという。
享年35歳の若さであった。
阿鼻叫喚の「七重浜」・・!、
話は変わりますが・・、
函館市西の郊外、函館湾に沿った浜を「七重浜」と云う。
小生が函館を訪れた今日は2004年9月25日である、当たり前で別に変哲の無い事であるが・・!!。
ただ、50年前の明日、つまり1954年9月26日、この場所で史上稀にみる大変な事が起きていたのである。
台風による国鉄客船「洞爺丸の遭難転覆事故」である・・!!。
走行中の車中のラジオで地元の放送局が・・、
「 洞爺丸遭難事故から50周年」という題材で、当時の放送記者だった某氏などより、取材当時の模様が語られていた。
小生は50年前は15才、中学三年生で、当時は未だテレビは無く、報道はラジオ・新聞だった。
このマスコミが大騒ぎで報じていたのを、今でも鮮明に覚えている。
この日洞爺丸は乗船乗客1300人あまりを乗せていた。
いちばん近い七重浜の海岸までわずか600mほどの至近距離 であったが、それでも、この、すさまじい台風(後日、洞爺丸台風と命名)のため洞爺丸は横転沈没し、多くの人が耐えきれずに 海底に沈み、生存者は僅かに150人だったという。
そしてこの地が、「七重浜」である。
遭難した死者が浮遊してこの浜に打ち上げられ、七重浜は阿鼻叫喚の凄惨な地獄の浜になったと言う。
タイタニック号に次ぐ史上第二位(当時)の海難事故であり、 この事故を契機に政府は莫大な予算を投じて、「青函トンネル」の建設を始めることになるのだが・・、南無阿弥陀仏・・!。
救難にあたった、ある自衛隊員の手記より・・、
『
私の命ぜられた作業は、砂浜に打ち上げられて海草やごみにまみれている遺体を探しだし、むしろを敷いたトラックの上に並べるというものでした。けれども我々隊員は、現場に到着した当初、あまりの惨状にショックを受け、足がすくみ動けなくなってしまいました。それを見た中隊長は、やにわに手にした指揮棒で我々を叩きまくり、速やかに作業するように命じたものでした。 6トントラックに日本人なら9〜10人、アメリカ人なら6人しか積めません。仏様ですから、積み重ねるわけにはいきませんでした。七重浜から函館市内までの輸送時間は2時間程でしたが、遺体が多すぎて地元のお寺に収容しきれないため、やむなく函館と現地とのピストン輸送となりました。 初めは動けなかった我々も、慣れるに従って、遺体をトラックに放りあげる様になりました。なにしろ作業が多いので、自然と遺体も荷物扱いになってしまいました。 ところが溺死体ですから、大変重いのです。そこで運んできた遺体を「ヨッコラショ」とかけ声もろ共放りあげたところ、現場に拝みに来ていた近所の人たちがそれを見ていて、エライご叱責を受け、閉口したのを覚えています。 遺体は、苦しいのか両手を虚空をつかむ様に、もがくが如く握りしめていたり、眠るような子供だったりしたのが、今でも目に焼き付いております。 人間の儚さ、脆さを、しみじみと思うばかりです・・合掌 』。
因みに、この日、同じ北海道の「岩内」で、この台風の煽りを受けて、大火災が発生していた。
これについては「岩内」の編で述べよう。
この遭難事件と岩内の大火を題材にした推理小説「飢餓海峡」(きがかいきょう)が、水上勉原作で著されている。
後に、同名小説を原作とする映画やテレビドラマのもなっている。
渡島半島の先端、北海道最南端の岬は「白神岬」である・・、
案内看板に近寄ってみたが、北海道の記念すべき「南端の地域」にしてはサッパリしたもんであった。
この白神岬は、昔は断崖がせまる急峻な山岳地帯であり、人を寄せ付けない所であった。
松前・函館を往来する「松前街道」はこの山中に在り車馬、人足、旅人等は脚を棒にして急坂の峠道を登り降りしたらしい。
しかし暖かく、天気晴朗、波静かな時は、白神山道の急峻な道を避け、この地の「白神岬」の海岸の道のない波打ち際を歩いたらしい。
だが、この沿岸も崖が海に迫っていて、満ち潮の時などは、どうしても海中徒歩を余儀なくされ、この時ばかりは男も女も荷物を頭にのせて裾をたくし上げ、ほぼ素っ裸で歩いたそうである。
この地から「松前」の家並みも、すぐそこに見えていた。
松前は、松前半島の突端にある「日本最北の城下町」である・・、
車だと函館から約2時間前後の距離だろうか・・、しかし、往時は、はるか遠い道のりであった。
松前町に入り、商店街の道を進むと、松前城の天守閣が鮮明に目に飛び込んでくる。
15〜16世紀に開かれたという寺院も多く、一見歴史の浅いと思われる北海道の中で、松前藩は中世から江戸時代を生きてきた特異な存在となっていることが判る。
御城を覗いて見ると、白亜の三層の天守閣が天に聳えている。
その横に大手門(本丸御門)が構え、城内や城の背景に広がる静かな寺町は、春には一面の桜花で覆われる桜の名所でもある。
城門の手前に「土方才三も上った坂」と記した看板が有り、この看板に合わせて京都・池田屋事件で活躍した「永倉新八は元松前藩士」ともあった。
新撰組の三傑の一人・「永倉新八」は、松前の出・・、
「永倉新八」は、新撰組の幹部として活躍、激動の幕末・明治・大正を生き抜き、77歳で天寿をまっとうしている。
新八は後に回想録「新撰組顛末記」などを著作し、史的資料としても貴重な書といわれている。
2004年度NHK大河ドラマ「新選組!」が放送されたが、「永倉新八」役にコマーシャルでもお馴染みな「グッさん」、こと山口智充が中々のはまり役であった。
近藤勇や土方歳三の後ろに居て、やや影の薄い新八であるが、剣の腕は、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤一」ともいわれた程だったといわれる。
「永倉新八」は、松前藩・江戸上屋敷で藩士の子として生まれている。
神道無念流剣術道場に通い、18歳で元服し新八と名乗る。
後、脱藩して剣術修行しながら、天然理心流の近藤勇に食客として入門する。
新撰組結盟以来の中核をなす隊士で2番隊組長を務め、1864年の「池田屋事件」では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦し、沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、永倉は獅子奮迅の働きをみせた。
又、京都の鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を募り官軍の銃弾に対して刀一つで突撃する豪胆さも見せている。
戊辰戦争では各地を転戦するが、会津藩の降伏を知り、その後江戸から松前藩への帰藩が許され保護されてる。その後は藩医の杉村介庵の婿養子となり北海道に渡る。
明治初年、家督を継いで杉村治備(のち義衛)と名乗り、樺戸集治監(当時は日本国)の剣術師範に招かれ19年間その職に当っている。
新八は晩年、小樽で過ごしていたらしいが・・、
盟友・土方歳三にとって北海道は最期の戦いの舞台となったが、新八にとっては長らえて蝦夷地が生きる場となった。
小樽の家では近藤勇と土方歳三の写真に、毎日のように手を合せていたという。
松前藩は箱館戦争では新政府軍側、永倉は旧幕府軍という相反するの立場として、松前では生きにくい面もあったのだろう。
松前から小樽は遠く、藩のしがらみの薄い漁師や商人の町の小樽で、同士たちに思いを馳せながら余生を送ったのかもしれない。
維新後、数少ない新選組幹部の生き残りとして、板橋に近藤勇、土方歳三の墓を建立している。
大正4年1月5日、小樽市にて死去、享年76の生涯であった。
新八の遺骨は、小樽と札幌の杉村家の墓と、新選組慰霊碑の立つ東京・板橋の墓に分骨されているそうである。
近藤勇の眠る板橋に埋めて欲しいといのは新八の遺言でもあり、新選組隊士・永倉新八は北海道では家族とともに、東京では同士とともに眠っている
新八の小樽でのエピソード・・、
或る時、孫を連れて縁日を散歩していると5、6人の若い男に絡まれた。
彼はその時、鋭い眼力だけで相手を退かせたという。
近年築城の松前城は、北の果てで激しい攻防戦を体験した・・、
「松前城」は、日本における最後の城郭で、戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)と攻防を繰り広げ、落城させられたことでも有名である。
幕末の築城にも関わらず松前城は、北の果てで激しい攻防戦を体験しているのである。
明治元年(1868年)秋、蝦夷に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。
松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城している。
これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためといわれる。
海からは軍艦・回天が、艦砲射撃で城を狙っていたが、城はすぐ間近に見え何の障害物もなく、砲撃には、まさに絶好のポジションだったという。
これらの弱点を土方軍によって巧みに衝かれた形となってしまった。
現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っているという。
しかし翌年に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、明治4年(1871年)の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となった。
明治8年(1875年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。
現在のものは、昭和34年(1959年)から36年にかけ、松前城資料館として鉄筋コンクリート造で再建されている。
創建当時から現存する建築物としては、本丸御門と本丸表御殿玄関及び旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみであり、本丸御門については昭和25年(1950年)に国指定重要文化財に指定されている。
また、曲輪・石垣などもよく残り、旧城地一帯が国指定史跡となっている。
現在の松前城は、春には道内有数の桜の名所として名高く、250種・8000本の桜がある。
4月下旬から5月中旬は桜が満開となり、道南の各地から大勢の見物人がおしよせるとか・・。
松前町は、北海道・渡島半島の最南端に位置し、西は日本海、南は津軽海峡に面し、後背は深い山地に囲まれている。
町並みは海岸に面して細長く延びていて、地柄としては発展性の乏しい町の様にも思える。
しかし、松山城をはじめ城下町は、400年以上の長い歴史をもち、全国、250以上の諸藩のある中、広い蝦夷地・北海道でも唯一の藩として存在が認められてきた。
その主な要因は、やはり本州・津軽に一番近い地域ということだろう。
次回も引き続き「松前藩」
PARTUへ